【インドの王様。アショーカ王から始まる】

これは、スリランカに伝わる最も古い歴史書の、『島史』『大史』で語り継がれていることである・・・・。

時は、紀元前250年前後の頃。広大な土地インドの全てを手にした王様がいた。彼の名は「アショーカ」。アショーカ王は、父親のビンドゥサーラ国王が死去すると、覇権争いにおいて、異母兄弟を含む100人程を殺したとされ、その後に大都パータリプトラへ入り国王に即位した。

ある時、アショーカ王が街に出た時、一人の聡明な修行僧と出会う。その修行僧の名は「ニグローダ」。修行僧ニグローダが、アショーカ王と出会った頃、修行僧ニグローダは、すでに覚っていたため、修行僧達からは、覚った修行僧の尊称「阿羅漢(あらかん)」と呼ばれていた。そのため、修行僧ニグローダは聡明かつ神々しく映えたこともあり、アショーカ王の目に止まり、アショーカ王は修行僧ニグローダに話しかけるきっかけとなった。

修行僧ニグローダは、アショーカ王に、ブッダの教え『小部(クッダカニカーヤ)/法句経(ダンマパダ)』と『相応部経(サンユッタニカーヤ)』を中心に伝え、それらを聞いたアショーカ王は、素晴らしき内容に大いに喜び、お釈迦様に対する信心を得るに至ったそうだ。

では、アショーカ王に最初に仏教を教えた、修行僧のニグローダとは、いったい何者なのか。じつは、アショーカ王が、王位覇権争いをしていた時に、アショーカ王が殺害した、アショーカ王の実兄スマナ王子の子であったのだ。つまり、アショーカ王の甥子である。

アショーカ王の実兄、スマナ王子が、弟のアショーカに殺された時、スマナ王子の妻は、妊娠中の身体を労りながら、チャンダーラ村に逃げた。チャンダーラ村には、神が宿るとされている樹木があった。その樹木の名は、「ニグローダ樹」。その地で生まれた子のため、王位覇権争いでアショーカに殺された、アショーカの実兄、スマナの子(アショーカの甥子)は、ニグローダと名付けられたという。

チャンダーラ村で育った修行僧ニグローダは、修行僧マハーヴァルナに見守れて育ち、青年になる前に修行僧となったという。言い伝えによると、修行僧ニグローダの出家の儀式で、頭の髪の毛を剃っている最中に、覚ったほど、修行僧ニグローダは、僧侶としての素質が備わっていた。

アショーカ王の実兄の子である修行僧ニグローダは、後に父親を殺した叔父のアショーカ王に、最初に仏教を伝える役目を果たすこととなる。 この出会いは、アショーカ王と修行僧ニグローダの、過去世から続いている、必然とも言うべきか、また、深い因果を感じるものであった。

さて、アショーカ王が仏教を熱心に信仰しはじめた時、アショーカ王は、長老の修行僧モッガリプッタティッサ師に質問した。「仏教の教えとは、何種類あるのか?」と。長老の修行僧モッガリプッタティッサ師は「仏教の教えは、八万四千ある」と答えた。これを聞いて、アショーカ王は、八万四千ほどの修行僧の住まい「精舎(しょうじゃ)」や、仏塔を建立するなどに至ったという。

【アショーカ王の息子と娘】

アショーカ王が、王位について、およそ六年後こと。アショーカ王は、自分の息子のマヒンダと、娘のサンガミッターに「修行僧になる意志はあるか?修行僧となるというのは偉大なことだ」と、半ば出家を薦める意味で質問をした。アショーカ王の息子のマヒンダと、娘のサンガミッターは「父王が望むのであれば、修行僧となります」と答えたという。時に、マヒンダは20歳。サンガミッターは18歳の時であった。

それから、アショーカ王の息子マヒンダは、出家の儀式で、モッガリプッタティッサ師を師匠として、マハーデヴァ、マッジャンティカなどが証明する下で出家した。男性の僧侶と、女性の僧侶では、出家の儀式が別になるため、男女ともに師僧が違う。娘のサンガミッターは、ダンマパーラー尼を師匠として、アーユパーラ尼などが証明する下で出家したと言われる。

アショーカ王の息子マヒンダが、仏教の下に出家してから、月日は更に経つこと、およそ12年。アショーカ王の息子で修行僧のマヒンダ師は、インドの下の島、ランカ島で、仏教を広めることを考えていた。

(以下の記事は、03/09更新分)

【ランカー島の王、デーワーナンピヤティッサ王】

時を同じくした頃、現スリランカの古い呼称「ランカー島」では、ムタシーバ王が退位して、新しい王様が即位した。ランカー島の新しい王様の名前は、デーワーナンピヤティッサ王。名前の意味は「神々から愛される王様」である。人徳、容姿、知識とも揃った素晴らしい王様、デーワーナンピヤティッサ王は、国民から慕われて王位に即位したと言われる。

たくさんの財宝で、即位を祝福されたデーワーナンピヤティッサ王は、有り余る素晴らしいそれらの財宝を見て「これらの素晴らしい財宝を、大親友である、インドの偉大な王の、アショーカ王にも贈ろう」と考え、さっそく使節団をつくった。『親書』と数々の財宝を託されたデーワーナンピヤティッサ王の使節団は、ほどなくしてアショーカ王のもとに向かった。

デーワーナンピヤティッサ王の使節団のメンバーは、マハーアリッタ、サーラ、バランタパッバダ、プタティッサ(占師)の四人。占師のプタティッサが同伴するのは、旅路において、旅路の吉兆を定めて慎重に向かうために重要な、ナビゲーターになるためだ。

ほどなくしてデーワーナンピヤティッサ王の四人の使節団は、アショーカ王のもとに到着した。デーワーナンピヤティッサ王の四人の使節団は、アショーカ王の大歓迎を受けたそうだ。もちろん、アショーカ王も返礼の贈呈品として「アショーカ王のお土産」を渡すが、その中に重要な『親書』も託されていた。

デーワーナンピヤティッサ王の四人の使節団に託された、アショーカ王の『親書』には、アショーカ王自身が、釈尊の偉大さを伝える内容と、お釈迦様に対して熱心な信仰を抱いて、釈尊の教え(仏法)をもとに、国をつくり、民に尽くしているという内容が記載されてあったようだ。後に、このアショーカ王の『親書』こそ、デーワーナンピヤティッサ王が、仏教を受け入れるきっかけとなる。

【マヒンダ使節団、ランカー島へ】

アショーカ王の息子の、修行僧マヒンダ師は、仲間の修行僧たちと会議をし、ランカー島に仏教を伝える大役を託されることとなった。時期が相応しいと決めたのには理由があった。ランカー島の王様となったデーワーナンピヤティッサ王は、アショーカ王の『親書』を読んで、ランカー島の神の山である、ミヒンタレー山に登るだろうと、不思議な力(神通力)で見通し、そこでランカー島の王、デーワーナンピヤティッサ王に出会い、仏教を伝搬するに相応しい時期だと判断したのだ。

アショーカ王の息子の、修行僧マヒンダ師は、ランカー島に仏教を伝搬するため、アショーカ王の許可を得て、選りすぐりの博学で健康な五人と、付き人の少年僧のスマナを含む、6人の僧侶で、仏教伝搬の使節団をつくった。その6人とは、マヒンダ、イッティヤ、ウッティヤ、サンヴァラ、ヴァッダサーラ、スマナである。スマナは少年僧(沙弥)として同行しているのは、若いスマナが世話係を任されたことと、相当な博学で智恵のある青年だったと記されている。この時、アショーカ王の娘の、サンガミッター尼は、最初の使節団に同伴せず、アショーカ王のもとに留まっていた。理由の一つに、サンガミッターは、女性の僧侶「尼僧」であることと、ランカー島に仏教を伝搬する上で、後に重要な役割を予知していたとも伝わっている。

(以下、03/14更新)

アショーカ王の息子の、修行僧マヒンダ師は、神々の中の帝王である帝釈天に「ランカー島で仏教を広めるのは、マヒンダ師の勤めです。旅を私がお伴しましょう」と聞かされる。これは、マヒンダ師のみに聞こえた、不思議な声であると推測される。

【出会い。帝釈天の、はからい】

必然とも表現したいほど、人と人との出会いの縁には、誰かが引き合わせたのだろうと確信できる時もあるものだ。ランカー島の王様、デーワーナンピヤティッサ王と、インドのアショーカ王の6人の使節団の出会いも誰かの引き合わせである。デーワーナンピヤティッサ王が、侍従達を引き連れて、鹿の狩りをするために、ミヒンタレー山に入った時のことだった。

デーワーナンピヤティッサ王が、ミヒンタレー山へ分け入ると、野草を食べている一頭の鹿に出会う。その鹿は、デーワーナンピヤティッサ王達が近づいても気づきもしないで無心に草を食べていた。デーワーナンピヤティッサ王が、しばらく黙って見ていても、鹿は動じない。そこで、デーワーナンピヤティッサ王は「これは不思議なことだ。いったいどういうことだ・・・」と心に思った。デーワーナンピヤティッサ王は近づいて、自分達の存在を知らせるために、弓矢の弦を鳴らすと、ようやく気づいて、ゆっくりとした足取りで、山の奥に入っていった。

「なんたる不思議な鹿だ」と感じたデーワーナンピヤティッサ王は、弓片手に弦を背負い、鹿の後を追った。鹿は森の奥に進み、ほどなくすると、森の奥に一人の人間が居るのを発見する。「誰か居る」と、人間の姿に、デーワーナンピヤティッサ王が気づいたとたん、鹿は消えるように姿が見えなくなった。

鹿を追って森の奥へ。そこで出会った一人の人間。彼は、アショーカ王の息子の修行僧マヒンダ師であった。そして、森の奥まで案内し、デーワーナンピヤティッサ王と引き合わせた鹿こそ、「ランカー島まで御守りして案内しましょう」とマヒンダ師に約束した、神々の中の帝王である、帝釈天であったのだ。

【『王の帰依』デーワーナンピヤティッサ王の、仏教への信仰】

アショーカ王の息子の修行僧マヒンダ師の、6人の使節団は、デーワーナンピヤティッサ王の歓迎を受けた。修行僧マヒンダ師は、出会ったミヒンタレー山で、デーワーナンピヤティッサ王に、『サンユッタニカーヤ/相応部経』を中心に仏教の教えを説き、全て法話を聞き終わった頃には、デーワーナンピヤティッサ王の心には信仰心が芽生えていた。

こうして、ラーンカー島の王、デーワーナンピヤティッサ王は、仏教に信仰するに至り、これがスリランカ仏教の始まりの歴史となる。

このことを『王の帰依』と言う 。