新興宗教について
いつの世にも人間社会には、「はやり、すたり」というものがある。歌や服装などが代表的だが、宗教にもはやり、すたりがある。今日、世界三大宗教と称される、仏教、キリスト教およびイスラム教もまた、その始まりは新興宗教として起こったものである。仏教は古代インドで絶対的な権威を誇っていたバラモン(祭司)の権威に反抗する形で起こったものであるし、キリスト教は、古代ユダヤ社会で絶対的な権威を誇っていたラビ(法学者)の権威に反抗する形で起こったものである。また16世紀のドイツでは、長年絶対的な権威を誇ってきたローマ・カトリック教会の権威に対して、マルティン・ルターが、宗教は本来一般民衆の魂の救済を目的とするものであるべきだという主張をしたことから宗教改革運動が始まり、やがてプロテスタント(「抗議する人」の意味)と呼ばれるキリスト教の諸派が生まれた。
初めは新興宗教として起こったこれらの宗教は、次第に多くの人々によって受け入れられて今日のような伝統を築くようになったのである。多くの人々がその教えを受け入れるに従って、当初は過激な主張を持っていた宗教も穏健な体質に変わってゆく。多くの人々の支持が得られなくなった宗教は自然に消滅してゆく。
いまからおよそ1400年前、聖徳太子が大化の改新という政治改革を発動した西暦645年の一年前、現在の静岡県にある富士川の辺りに住んでいたある男が、ある日、木の枝などに住む青虫を永遠の命と繁栄を授けてくれる神様だと言い立てた。このうわさがたちまちに民衆の間に広まって大きな新興宗教運動に発展した。当時の人々はこの宗教運動を「はやり神」と呼んだ。これに対して朝廷は、やがてこれが社会不安を引き起こすかもしれないと考えて、当時の有力政治家であった秦河勝(はたのかわかつ)が首謀者を捕らえて打ち据えたため、ようやくこの宗教運動は収まったという。一連の経過は「日本書紀」に記録されている。この「はやり神」の運動は現在知られるかぎり日本最古の新興宗教運動であったといわれている。
冷静に考えれば、青虫を神様として崇めるということはたわいもない迷信と片付けることができるが、それでは21世紀に生きる我々が1400年前の祖先の行動を笑うことができるだろうか?
いまから20年前、カルト集団「オウム真理教」が起こした地下鉄サリン事件は現在も多くの人々の脳裏に記憶されている。地下鉄サリン事件で被害に遭われた方々はいまなお後遺症に苦しんでおられる。あの事件当日、私は両親と東京、港区麻布にある自宅に住んでいた。社会人になってまもない頃で、朝、霞ヶ関付近にある勤務先へ行くために朝食を摂っていた。突然テレビにニュース速報が流れ、地下鉄霞ヶ関駅で爆発?が起こったらしいということだった。私はすぐに家を出て最寄りのバス停へ行くとすでに長蛇の列になっていた。何台かバスを見送ってからようやく乗り込み、職場へ着くと、みな仕事をそっちのけでテレビの実況中継に見入っていた。初めは状況がつかめず、地下鉄構内で爆発が起こったのだろうと思っていた。やがて原因が毒薬のサリンだと判明した。その後の経過はみなさんがよくご存知のとおりで、富士山麓にあった教団本部が摘発され、教祖を初め教団幹部が逮捕されて、このカルト集団の異常な実態が次々と明らかになっていたのである。
このカルト集団は当初、自分たちを仏教ないしヒンドゥー教の流れを汲む教えを奉ずる一派であると喧伝していた。彼らはヒンドゥー教徒たちが纏うような白衣を身に着け、自分たちを「出家者」と称した。そもそも教団名の「オウム」(aum)とはヒンドゥー教で最も神聖とされている「マントラ」(真言)に由来している。しかしその実態は単なる殺人集団であり、本来の仏教やヒンドゥー教とはまったく縁もゆかりもないものである。「オウム真理教」自体は現在すでに解体されており、また本来の仏教やヒンドゥー教とはまったく縁もゆかりもないものであることは明白であるが、いまだにこのカルト集団が遺したマイナスのイメージが世間の人々に悪影響を及ぼしている。すなわち「宗教イコール怪しげなもの」と見る見方が多くの世間の人々の脳裏に刻み込まれているのはまさに「オウム真理教」事件の悪影響である。なかでも最も悪影響を受けているのは仏教およびヒンドゥー教である。このマイナスイメージを払拭することはなかなか困難であろう。
英語では“religion”と“cult”とははっきり区別されている。“religion”(宗教)はきちんとした教義体系を持ち、組織された教団があり、社会の人々からその存在を認められているような集団を指す。これに対して“cult”(カルト、狂信集団)とは、世間的な常識から外れた主張をする教祖が指導する集団であり、しばしば反社会的な行動をとる。社会をよくするための反体制運動というのもあるが、カルト集団の行動はしばしば社会的秩序を乱し、現体制の転覆を図るような方向に向くことが多い。「オウム真理教」はまさにその典型である。かつてアメリカで起こった「人民寺院」というカルト集団が引き起こした事件では、信者たちが南米ガイアナの教団施設で集団自殺を遂げて大きなショックをアメリカ社会に与えたのを記憶しておられる方々もおられると思う。
以前に読んだ作家、曾野綾子氏の随筆におよそ次のようなことが書いてあったと記憶している。曾野綾子氏自身はキリスト教徒だが、仏教やイスラム教など他の諸宗教にも大変理解が深く、つねに敬意を払っておられる方である。曾野氏が曰く;①人の弱みに付け込んで、「この宗教に入らないと不幸が訪れる」と脅して入信させようとする。②やたらに現世利益だけを強調する。③多大の寄付を強制的に要求する。このような宗教を勧められたら、断固として拒否するべきである、と述べていた。曾野氏が言うとおり、上記の主張をする団体は、ほぼ間違いなく「宗教」ではなく「カルト」である。まともな宗教は①人々の幸福を願うものであり、他人の不幸を願うことはない。②現世利益をまったく否定はしないが、まともな宗教はもっと深い精神性を追求するものである。③寄付行為はあくまで個人の気持ちでおこなうものであり、強制されておこなうものではない。
つまらないカルトにひっかかると、人生の破滅を招きかねない。カルトは振り込め詐欺と同じく、隙あらば、我々の心に入り込んで来ようとする。皮肉なことに「自分は無宗教だ」という人ほどカルトにひっかかりやすい。我々は日頃から「まともな宗教」に触れて自己の精神をしっかりと保ち、カルトに付け込まれないように注意すべきである。
2018/05/04 Upasaka 亨