◆興法精舎建築 しんちょく状況
昨今、希望通りの図面内容に対して、見積もり額が出たため、筆頭の寺男と寺女には口頭で連絡し、情報を伝達。拙僧としては、予想通りの額になり、これから「妥協すべき引き算」をする。妥協すべき引き算も、100万円~150万円の間が予想範囲。
建坪数が約40坪で平屋造り。宮大工を入れるような、特殊な屋根等ではないも、内部の祭壇の建具などの細かい部分に仏教寺院造りの経験者ではないと想像が難しい部分もある。そこは、絶大に信頼する、施工する社長の信頼があり、ありがたや。
==図面作り。楽しい10年の歳月==
寺の図面。部分的に整えていく、細かい作業。寺に必要な条件をそろえるために、気が遠くなるような時間を費やしている。
仏具一つを求めて、何時間も費やして行くなど何度もあり、物を得るだけではなく、特に長老達の助言、その寺でしかわからない一瞬の出来事を感得するためにも方々に出向いた。
自分では考えもしない知識が、長老達は、短い会話の中でそっと出してくださる。対面わずか5分~10分。
知りたい、聞きたい、見たいと思っても、師匠や先輩の同行無しでは当然行けない。公式訪問、1人では行けない。これが私たち僧侶の鉄則だ。
身分を保証する仲間がいないと、相手は重要な知恵を開示しないのは当然である。
聞かせてくれた一片の知識とは、金粉で最高の絹に活字に残した巻物であっても、80年も修練している長老の言葉には価値は及ばない。自分が基礎鍛錬しないと、長老の言っている意味もわからないし、表面的な浅い理解で終わってしまうか、聞き逃してしまう。長老の知恵の値とは、それほどの価値だ。
私達は、ゆらゆらと悪路に揺られてスリランカの内陸奥や山中の僧院や、日本においても古寺をたくさん見学し、奈良や京都の山奥まで行ったものだ。
師や先輩には何度も同行してもらい、先々で法談を繰り返してきいる。経験してきたことすべて、素晴らしく、楽しい日々である。今後も修学は続くため、ますます楽しみだ。
==教えの集積、伝える手段==
得た物、造られる寺。知識ひとつ、知恵ひとつ、仏具一つにも長老達の知識の寄せ集めである。それらを私が一時的に経由処となり、形とするため、「得た物、造られる寺」のどの部分をとっても、私のものは一つも無ければ、そんな道理はとこにも無い。師匠達にも自分の物という意識もない。
私はよく表現するが、建物・寺院は、偉大なる長老達の「仏法の集積」を形に表したものだと。
皿一つ、花一輪、仏具一点、電灯一つ、寺の一点一点には意味とストーリーがある。
青年学生の施しの一灯。老婆の一輪花。苦しみからの解放の懺悔の仏具。父母供養の一尊仏。年忌の一皿、修学報恩と謝徳の仏教経典布施。
皆、知らないだけで、ストーリーがあるのだ。
一点一点に教えを具現化し、後の弟子達が、それらから学び取り続ける、摩耗しない知恵だ。
すなわち寺を建てることは、仏法を広める最尊の方法である。
近代の日本の仏教徒は、こういう視点に触れにくい。芸術的価値や、住居空間という認識止まりが多い。存在している条件は物質的要素以外の、経験が生み出した知恵が支える構成要素に着目すると、自分が接する寺の価値が変わってくる。
学術的根拠を探ることも度々あるも、ほとんどは足でかせぎ、机上の記録よりも、行き先で記憶と修得が大事である。
完成しかけの図面では、特別に豪華絢爛なものは何もなく、あまりにも質素かつ簡素なため、何がこだわっているのか、一般には不明であろう。
だが、寺の存在には、長い貴重なストーリーがあることを是非知ってもらいだいものだ。
・・・話が長すぎで止めよう。
==写真 地鎮祭の土砂準備完了==
ご覧の、強化クリスタルガラスの容器は、地鎮祭で地中に埋める「舎利器」。この中に、仕分けした、スリランカの仏跡地の土砂宝石を入れる。
その内、拙僧が所属する寺の、乾燥した菩提樹の実と小石も入る