~僧と檀那~
自分のお寺の自分のお坊さんをもつこと。
正しい戒律の解釈では、一人のお坊さんには一人の付き人が付く。彼らは、男なら寺男、女なら寺女とも呼び、総じて「檀那」とも呼ぶ。
檀那は、僧侶の戒律上の解釈でも、重要な存在である。
檀那が正しく存在する背景には、戒律が関係する。独身で生産性のない生活をし、行動制限のある僧侶を支えるのは、親身になって信心で支える檀那の存在は欠かせないのだ。
我が師匠の檀那の中には、自分の人生と財産の多くを、寺や一人の僧侶に尽くし、僧侶とともに命つきるまで生涯の人生を過ごす決意の人もいる。師は、私服を肥やそうという意図は微塵も無く、寺を維持したり、沙弥(少年僧)を育てたり、奉仕などの社会に還元している使い方をして実際に私財はない。檀那の功徳を、いかに生かすかと配慮する師には頭が上がらない。
檀那の優れた行いと人徳の質は、まさに師である僧侶の質を表すものである。
==お坊さんと仏教信徒==
僧侶はひたすら自分の修行の完成(覚り)に励む。
僧の中には、山中にこもって社会から断絶して自給自足の木食人のような者もいれば、通常の修行に加えて一般の人々に法話を説いたり、相談にのったり、積極的に社会貢献にも励む人もいる。拙僧は後者だ。
一般の信徒、いわゆる檀那側は、ごく普通の一般の生活をしているため、お坊さんのように集中的に修行することはできないが、一般の信徒が覚ることはできないという意味ではない。
檀那側は、お坊さんを支える側に立ち、支える様々な行いを成すことで「功徳」を積み、その功徳の力で「覚り」を達成することができるのだ。
このような互恵関係から、一般の信徒は、お坊さんを育てるという見方もでき、また別の見方では、お坊さんに尽くし行った分だけ自分に福徳が還ってくる檀那の修行でもある。
堅い信頼と信心により、親しく近い関係でありつづける互恵関係は、まさに現代日本人が連想する「檀那」の語意と合致するであろう。
堅い信頼は、互いに誠実正直であることに加えて「裏切らない、嘘をつかない、誹謗中傷しない、諦めない」によって成り立ち、信心は自然と追随するのだ。
「畑は僧侶。種は檀那」
たとえて言えば、こういいう関係である。
人々個々の行いに眼を配らなければならないため、僧侶側の「配慮と目配り」が重要になる。檀那や信徒の行動を見て明確に記憶する記憶力も互恵関係構築には欠かせない。
昨晩は、私も配慮したつもりだが・・・一人一人と向きあったときに相応しい助言ができるように、知恵と洞察力を磨いていきたいものだ。
拙僧の檀那もまた、性別に隔てはない。優れた徳を持つ筆頭の檀那がいるが、性別問わず、さらに増えていくてよう努力研鑽を高じていきたいものだ。
==僧坊食堂==
寺側は、けんちん汁と塩小豆飯を用意
他は、参加者持ち寄りの施し物。
一人一人の施し供物は、ありがたいものだ。痛いところは治り、悩み苦しさは全て消える功徳がある。
==食事作法==
拙僧としては惜しみなく、師達からの教えと経験を小冊子にまとめた。大事にしていただきたい。これほど丁寧に行い実体験ができる寺は、めったいにあるものではない。実際に経験することは重要な事実である。
次回も、必ず持参を。持ち主の名前を書いてあげます。
==三宝荒神ご開帳==
次回の扉が開く日(ご開帳)は、約1年後の2時間のみ
探し物がある方は、ご開帳に関わらず、ぜひお参りを。
◆次回の満月は、4月30日(月)19時~通常通り
◆僧坊食堂~けんちん汁と塩小豆飯。食事作法付き