※ホームページ構成作業上、再掲載しております
あの日」から7年目の3月11日、日本中が鎮魂の祈りに包まれている時に、興法精舎の阿部眞典師からホームページ開設のお知らせが届いた。うれしいことだ。私もなにかできることはないかと考え、このようなコラムを執筆、掲載することを提案したところ、眞典師から快諾を得た。これから、おりふし、想うことなどを書き綴って行きたい。興法精舎および眞弘寺檀信徒の皆様、一般読者の皆様との交流も心がけて行きたいと思う。
第一回目はやはり「あの日」のことから始めたい。
「あの日」、私は自宅がある神奈川県の商業施設の6階にあるレストランで卒業生と遅い昼食を摂っていた。メインが終わり、デザートを食べようとしていたところに強い揺れが襲ってきた。周りの客もみな立ち上がって見回していた。幸いガラスの窓もその他の器物も一切壊れず、ただ天井から吊るされた照明器具が大きく揺れていた。私は揺れがおさまったのを見計らって会計を済ませ、階段で地上へ降りた。幸いバスは通常通り動いていた。自宅の中はさぞグシャグシャになっているだろうと覚悟して鍵を開けたところ、奇跡的に何ひとつ壊れてはいなかった。私はすぐさま仏壇と神棚に感謝の祈りを捧げた。まもなく高校教師をしている家内が戻って来た。車で帰る途中で急に道路がまるで大波に揺さぶられる船のようになり、何が起こったか分からずに急停車したという。まもなく二回目の揺れが襲ってきた。我々は卒業生に留守番を頼み、小学校へ息子を迎えに行った。児童たちはみな校庭に避難していた。幸い児童の怪我も校舎の損壊もなかった。我が家は湘南海岸から4キロほど内陸に入ったところだが、万一の津波襲来に備えて用意してあった避難袋を持って裏の山に登った。近所の人々がみな避難してきていた。はるかに相模灘や江ノ島が遠望できる。誰かが携帯ラジオの放送を流してくれていた。みなそれに聞き入った。次々に入る津波の被害状況にみな不安を募らせた。今しも正面の相模灘が大きく盛り上がるのではないかと、みな目を凝らして海面を見続けた。
夕暮れになり、ひとまず津波警報は解除されたので自宅へ戻った。私は家内とすぐに車をガソリンスタンドに走らせ、満タンにした。幸いまだ行列は始まっていなかった。その夜からしばらく自宅で篭城生活を余儀なくさせられた。計画停電が始まり、昼間や夜に電力供給が止まった。我が家には太陽光発電の設備があるので昼間はテレビなどを見る程度の電力は確保できたが、調理などはできなかった。
私は停電の夜、つれづれに亡母や祖母などから聞いた関東大震災の昔話を家族に聞かせた。
亡母は大正3年(1914年)生まれで、1998年に亡くなった。母が尋常小学校3年の時に関東大震災が発生した。大正12年(1923年)9月1日午前11時58分。自宅は現在の東京都渋谷区広尾にあった。現在は都心の高級住宅街もある地域だが、当時は東京府下豊多磨郡渋谷町という郊外で、牧場などもあるのどかな田園地帯だった。母は二学期の始業式を終えて帰り、そろそろ昼ご飯を食べようかという頃だった。幸い付近は火事も発生せず、家屋の倒壊もなかった。もうすぐ二歳になる妹の寝ているベビーベッドがはげしく揺れ、母親があわてて幼い妹を抱きかかえて庭に避難したそうだ。まもなく父親が帰宅した。神職をしていた父親、つまり私の祖父(明治8年生まれ、当時48歳)は現在の東京タワーのあたり、芝区(現在の港区)にある神社で祭典をしていたが、地震発生後、すぐに袴のももだちを取って(裾を左右にまくること)草履を懐に入れて足袋はだしで渋谷までかけ戻ったという。途中、大きな家の梁が落ちて小さな女の子が下敷きになっているのを見て、体にふるえが来たそうだ。その夜から余震が相次いで家の中では寝られないので、庭にお神楽で使う紅白の幕を木の枝に結んでテントの代わりにして過ごした。そのうちに都心から大きな風呂敷を背負った避難民が続々と来て、町内会で炊き出しをしたという。当時は電話もラジオ放送もなく、流言飛語が飛び交った。そのなかでも当時日本一の高層建築だった浅草の十二階(凌雲閣)が六階から折れたといううわさが流れた。これは事実だった。当時はまだ自動車が普及しておらず、道路からの火災発生はなかったが、家屋はほとんどが木造であり火の回りが速かった。それに加えて避難民が背負う風呂敷包みや大八車に火がついて飛び火したというもっぱらのうわさだった。新聞の号外も発行されたようだが、亡母はまだ幼くて新聞については覚えていないようだった。数週間たってから、横浜の居留地では大きな地割れがして、その中へ市電がまるごと落ちて多くの人々が生き埋めになったという話が伝わってきた。
現代の話に戻ろう。
我々の地域は被害もなく、生活に多少の不自由があるくらいで済んだが、東北三県では現在もなお多くの人々が不自由な生活を強いられている。東日本大震災のことはまだ我々の記憶に新しいが、いまから95年前に発生した関東大震災のことを直接記憶している人はもはや現存していないだろう。私のように親から話を聞いた人さえもうほとんどいないかも知れない。でも、これらの話を他人事として片付けるわけには行かない。科学がどれほど進んでも自然災害は完全に予防することも予知することもできない。明日はわが身に降りかかるかもしれないのだ。明日我々が避難所生活を強いられないとは誰も断言できない。
科学の進歩を否定するわけではない。でも科学を過信するのは禁物だ。
亡母がよく「神仏に催促なし」と言っていたのを思い出す。「困った時の神頼み」とはよく聞くが、「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」ともいう。一時の困難が過ぎ去ると、神仏にすがった時のことをけろりと忘れて「宗教なんてナンセンスだよ、迷信だよ!」などと分かったふうな口をきく人が皆さんのまわりにもいないだろうか?神仏は決して我々に「御礼をしなさい」と言わないが、きちんと誰が何をしたか覚えておられるのだ。そして次にまた「困った時の神頼み」をする人に対して神仏は暗に「おまえ、昔のことを忘れてはいないか?」と問いかけておられるのだ。
まったく「神仏に催促なし」とはよく言ったものだ。日頃神仏に感謝して生活をしていれば、困難に出会っても神仏は助けて下さる。助けられたら必ず御礼をしなければならない。それは神仏でも人間でも同じことだ。
人間なんて弱い存在だ。現世利益を求める心情もよく分かる。それもすべて呑み込んで手を差し伸べてくださるのが神仏だ。仏教でもキリスト教でもイスラムでもよい。自分がいいと思う教えを受け入れればいい。ただ「この宗教を信じればおカネが儲かりますよ」などと言って言葉巧みに誘ってくるカルトにはくれぐれも注意していただきたい。
東日本大震災で不幸にも肉親を失った方々に面と向かって「魂なんて存在しませんよ」「供養なんてしても無駄ですよ」などと臆面もなく言える人がいるだろうか?我々にとって肉親はあの世で(天国、極楽と言ってもいい)暮らしていると思いたいのだ。魂の救済は物質的な援助と同じくらい大切なものだ。宗教者がこれほど必要とされている時はない。東日本大震災で失われた多くの魂に思いを馳せつつ、「神仏に催促なし」を我々の自戒としたい。
2018.3.12
興法精舎 upāsaka 信徒
慶應義塾大学名誉教授
野村 亨