和尚の小話:日本人は修行に向いてない

これは和尚の独断であります。

結論から先に言うと、日本人の多くはストイックな修行は向いてないと感じますね。

正確に言うと、ストイックな個人修行の実践は難しい。

対してインド・スリランカ文化圏にいる人々はストイックな修行が得意だと感じます。

正確に言うと、ストイックな個人修行の実践の環境が整っている。

これらの根拠は、日本と南アジア圏の言語、地形、気候の大きな違いですね。

ざっくり言いますと、南アジアのインド・スリランカ文化圏は気候が温かく、比較的安定し、農作物も安定し、雨風が吹き荒れようが、上着がなくてもとりあえず過ごせる環境です。

だから、修行を始めるにあたって振り出しから心配事が少ないわけです。

一方、日本は春は温かいが夜は寒い。夏はいいけれどすぐに秋が来たら寒い。冬は雪がふり寒くてどもならない。次の季節を心配しなければならない。

となると、日本人の多くは衣食住の次の季節の準備をしなければならないわけです。

これは今現在でもそうです。春になれば夏の準備をして、夏になれば秋の準備をし、秋になれば冬。冬の前に次の春の準備もする。

じつに計画的で、生活が忙しいです。

なので南アジア圏と比較しても、日本では衣食住の最低限を確保するにせよ、人と人が密接に繋がっていなければならないわけです。

南アジア圏なら一人でもなんとかなりますからね。

いつでも木の実はありバナナがなってれば食べればいい。スリランカでもそうです。あちこちでバナナがなってます。マンゴーもあります。修行僧が食べたいと言えば、どうぞどうぞと食べ放題です。野草、薬草もあり、雨風をしのぎたければ探せばなんとかなるわけですね。

何と言っても私物が最小限で済むわけですね。

いいですね。それはそれは修行僧は自分の世界で生きやすいわけですよ。

ところが、日本だとそういうわけにいかない。

修行の振り出しからあれこれ先を考えて、僧坊はどうしようか、冬の備えはどうしようかと考えるわけで、それに施しをしてくれる人も少ないから自分のことは後回しにしなければならないのです。宗旨宗派が増えていくと、なかなか宗派が違う寺だとどうも入りにくい。

辻斬り切り捨て御免の時代なら、恐ろしくて野宿も難しい。

今現在でもそうですが、和尚の私は来たる冬をどう過ごそうか、除雪しなきゃならん。灯油は必要、どこが安いかと探し。野菜をどう確保するか。次の春の準備もしとかなきゃならん、ああ満月が来る、法事はあり、相談者も来て、参拝者も来て対応して、掃除もしなきゃと考えたら、あっという間に一日が終わる。

そうすると日本では、自分の修行より他とどう関わり、そして他人と上手に平穏に過ごすためには何ができるかと考えるわけですね。いいですね。日本人の長所がでます。

よって南アジア圏の修行僧は自分がどう生きるかということに没頭できるに対して、日本では未来をどうするか、強いては死後をどうするかという視点へと向きやすくなるわけですね。

集団で過ごすし、集団の和を尊重することにことさら重点を置くようになるため、国全体の国民気質が自分の意思はどうであれ、あれこれ文化習慣を受け入れるようになるわけですね。

バラバラで生きて生きずらく争うよりも、とりあえず仲良くしよう。とりあえず馴染もうですね。

ここは合理的判断で、なにせ日本の気候が変化激しいため一人で、なんとか一人で生きようと意地を張っても、生きるのが難しいわけです。

山岳修験の道もありますが、一生涯そうしていればいいわけでもなく、ゴールがあっていつか終わりもくる。つまりなんとなく修行期限が頭の片隅にあるわけです。

南アジア圏の修行僧には、そんなものなにもないですね。

ずっと同じスタイルで、のんびりひたすら同じ事を繰り返していける。しかも計画を立たずにいられる。心配事が少ないですね。そりゃ哲学事に没頭できるわけです。

インド文化圏でアビダルマ哲学が発展したのも納得ですし、秀でた修行僧が多いのも納得です。

日本でインド式に修行していては一人の人は生きていけません。

村八分状態になります。それはですね。日本では合理的でもなくよくない。

日本では、一人の修行僧は自分の修行の目的を他をいかにして幸福にすることができるかと考えることが合理的な生き方になります。自分の修行ももちろんしますが、一日の流れの中でほんのわずかです。

人と密接に関わり、社会に馴染み、社会にいかに貢献でき、いかに他人の苦しみに向き合えるかという目的を達成することで、自分の理想とする覚りの境地を体得実感するわけです。

このことは例えて言えば登山の方法が違うようなものですね。

言語が理由というのは、これは簡単で日本語の発音はやわらかいですね。舌音、歯舌音、巻き舌などないです。濁音はありますが、大きな声を出して会話する必要はないです。

しなやかに発音して聞こえますし、だいたい会堂で法話機会が多く、会堂で法話をすると会堂内が響きます。

対してインド・ヨーロッパ語族に属するサンスクリット語とその造語の言語達は、激しい発音が必要です。そして外で法話する機会の法が圧倒的に多く、野外では大きな声を出さなければならない。拡声器もマイクもないのが基本ですからね。

それにじっくり考えるとわかることですが、言語の違いで、呼吸法の差違が当然あり、血のめぐり、体温、思考全体に影響があると私は考えますね。

なのでインド文化圏の言語、日本語の言語の違いだけで思考の変化は当然現れます。

とにかく日本人は日本で古式インド式の修行は向いてないですね。かなり難しい。

最後に

しかしです。それでも日本人の修行僧の中には秀でた修行僧もたくさん出現しています。一例を挙げれば、弘法大師空海という超人的な優れた僧侶がいます。こういった僧侶は日本で生まれた日本人でありながら、自分のことに向き合うことが得意で、秀でて、ストイックな修行も向いているセンス抜群の修行僧なのだと思いますね。なおかつ日本という国と国民性を理解して極めて上手に他人と向き合うことができる超優れた人材です。

ですから特別に民衆の信仰と尊敬を集めるのでありまして、弘法大師空海さんは超人的な方だなと思い、どうしたらそのように生きられるのかとすごすぎて腰抜かしますね。

まず弘法大師の最も優れた点は言語学が極めて得意であることです。言語学が得意というのは他を圧倒する圧倒的に優れた部分です。言語学が得意であったから修行僧として成果を出せたと言って過言ではないです。他に、ストイックな個人的な没頭の修行もこなせ、誠実、勤勉、作務も怠らず、話は上手、声もいい、字も上手い、顔もいい、身体も丈夫、何でも食べる、人に人気ある。こりゃかないません。

こういった私和尚の分析は、すべてお釈迦様の教えである「縁起法」を学んでのことです。つまり結果には原因があり、原因にもまた結果がもととなり、また原因となる。ですね。

お釈迦様、大師ら偉大なる尊者達よ

ありがたや

【写真】 和尚のスリランカ・パーリ律具足戒の様子(平成19年)・スリランカ キャンディ市 スリ・ダラダーマーリガーワ・ウポーサタビハーラ授戒堂にて

『法句経』全暗唱試験の様子