仏説、すなわちお釈迦様の言われたこと、博識の賢者である尊者達が伝えたことは、学位や地位、年齢や修学力で理解するものでもなく、センスです。
もちろんながら、理解力に年齢、性別、職業、身分、国籍、人種は直接関係ありません。
理解できる素質、センスです
たとえ、膨大な数の仏典を細かく解説できても、膨大な数の仏説を覚えて講義できたとしても、核心である本質を、簡潔かつ合理的に説明できるくらい、つまり学童が理解できるくらい簡潔かつ完璧に理解していなければ、それらの前者の知識は全て意味をなさないものです。
むしろ、正しきを理解するはずの知識が、理解を邪魔をすることもあるでしょう。
大師空海が言われる通り、知識、すなわち情報は、取り入れる時期と、順番と、成熟する時間があり、その判断を誤ると後戻りできないほどの「誤認された知識」という煩悩(執着)に変わります。
ある仏典に、こう記してあります
「ある日ブッダは言われました。「修行する友よ、そこの少年僧に礼拝をするべきです。なぜなら、長老の君より、その少年僧の方が理解が優れているからです」と。すると長老は怒ってその場を去っていきました。彼、長老は遂に覚ることができなかったのです」
この一文は、理解力は人の素性により、理解力は必ずしも知識力ではないということを示した一説です。
仏説に理解できる人に出会うことは、途方もない数字で表現するくらい極めて希なことです。その僧侶の有名、無名は全く関係ありません。
有名な僧侶の名前や、あらかじめ用意された情報を前提に理解しようとすると「あらかじめ自分が心の準備をしていた欲しい理解、求めていた理解に、整合するように、自分の心が動く」ことになってしまう可能性が大いにあります。
これは全く新しきを修得する手段としては、振り出しからすでに誤ってしまうことになります。
博識の賢者である優れた僧。そういう極めて希有な僧侶に出会い、そして自分が理解でき、自分が理解できてると教えてくれる機会に自分自身がその場にいること事態は、あらゆる言葉を使ってでも表現しきれないほどの素晴らしいことです。
もしそのような僧に出逢えたなら、自分の存在が尊く、唯一無二であり、なにものにも比較することもなく、卑下することもなく、おごる事でもない、上も、下も比較対象もない、尊い存在だと気づくでしょう。
ブッダの生まれが尊く、また自分自身である尊者達、彼等も個々に尊い存在だと、簡潔につたえられた「唯我独尊」の真の意味だと和尚は伝えたいです。
善哉、sadhu 、よきかな
世尊、大師ら尊者達よ。
ありがたや