あるとき、和尚さんは考えました。
和尚はこの頃、仏教哲学において極めて重要な課題、人の「意識」について自習しています。人間の心の在り方、頭の中で考えたことの「意志」の行き先を含めて、「意識」という概念についての研究です。自分自身の、人生の様々な出来事を実例として、「因果関係と自己観察」をしながら、人間が経験する事象の全ての「因果関係」と「意識」の関係について探っているところです。
和尚が考えていることは、例えばこうです。人間が経験する、楽しいこと、嬉しいこと、苦しいこと、喜ばしいこと、人との出会い、別れ、人と接することから生まれる経験などには、必ず原因を意味する「経験する条件」があります。私達が学ぶ仏教学では、自分が経験することが、なぜゆえに経験するのかと考える場合、経験する内容が何であれ、経験内容と、自分の「意識」の作用とは全く無関係の事柄を示す、「偶然」はあり得ないないと、説明しています。自分自身が実際に日々経験することには、必ず理由があるわけです。その理由を説明し、立証するために不可欠な理論が、人間の「意識」の概念なのです。
そこで、先ず、仏教学を学ぶ際に肝心なことがあります。それは、学習する内容に対して、社会の出来事や、自分の身の回りで起きることが実例になるため、学習しながら、感情的にならないことです。「好き」「嫌い」「辛い」「苦しい」「嬉しい」「心地よい」。そういった感情は省いて考え無ければ、理論は偏ってしまいます。自分が心地よいとされる理論と、ついつい、すりあわせて考えようとしてしまうことは、理論を公平に正しく考察する上での障害となってしまうからです。
私達が、毎日、ごく普通に経験する様々な日々の出来事には、全て自分の「意識」と密接に関係する「因果関係」があると、各・仏教部派は唱えていて、「意識」という概念の定義は、各・仏教部派で、微妙に違っています。各、仏教部派の尊者達が共通して言うことには、「意識」が現在の自分の存在や、環境を構築する重要な「要素」と考えて、よく観察するべきだということです。すると、「意識」の扱い方、捉え方と言いましょうか、「意識」という理論と概念を、従来の考え方を捨て、組み立て直さなければなりません。
各、仏教部派の尊者達は、「意識」を細かく分類しています。なぜ、分類するのかというと、「意識」がもたらす作用が肝心になってくためです。「意識」がもたらす作用を例に挙げて考えてみるとわかりやすいです。例えばお坊さんに施す「布施」を例にあげて考えてみると、こうです。布施の内容を認識し、布施をしたい、布施をする、布施をした、布施をした後の「意識」の余韻力(効果・影響・蓄積先)。おおまかに「布施」の行為を分類しても、これだけ分けられます。
さらに理論上では、例えば、一例に挙げた「布施」の意識がもたらす作用は多様に広がります。その人が日常使う言葉の種類、会話の内容、何気ない動作、思考、行動範囲、食事の内容、服装、歩き方、嗜好の内容、職種、友人の質、生きる全てに関与(影響)してくる理屈は、想像し易いところだと思います。また、それぞれ一個一個の行為を取り上げても、それぞれに「意識」が働きますよね。「意識」作用の影響を、仮に図に現すなら網の目の様な構図になります。
さて、これら一連の動きを、意識がもたらす「作用」と言い換えて表現すると、「意識」の正体と言いましょうか、正しく「意識」を認識することが、結局は、自分が覚りへの重要ポイントになってきます。たとえば、意識と密接に関係する、煩悩が何であるかとか、執着や愛着だとか、功徳とは何であるかとか、最終的には、覚りを意味する「涅槃(ねはん)」が何であるかが開けてくるわけです。
こういった理由から、「意識」について、各・仏教部派の尊者達が、探求にこだわったのも、私は納得するところです。人の「意識」を研究してきた尊者達の間では、「中観派」「唯識派」などの哲学部派へと発展し、異なる内容だからこそ楽しく、どれも優れた素晴らしい内容になっていて、勉強していることが楽しいわけです。
今回はこのあたりで・・・・。
和尚は、次回の満月会(11月29日(日)19時から)で、おしゃべりしようかなぁ・・・とも考え中。
お釈迦様、お大師様、尊者達よ。ありがたや。
和尚 拝