今回は職人、技術者の話をしよう。
現代社会のさまざまな分野に、その道の専門家がいて、産業や経済が成り立っている。そのような専門家は現代風に言うと「技術者」、昔風に言うと「職人」と呼ばれる人々である。
京都、奈良あるいは金沢などのような長い伝統を持つ町を歩くと、そこかしこに「老舗」(にしせ)と呼ばれる商店が目につく。それらの店先には「○○御用達」(「ごようたつ」、「ごようたし」はどこかの頭の悪いニュースキャスターあたりが誤って読んだ誤読。)などの文言が金文字で書かれ、皇室、大名家あるいは有名社寺などから長年にわたってご贔屓(ひいき)を受けて来たことを表示して、その店の格式を誇っている。一般国民もまた、そのような老舗を信用して商品を購入する基準とする場合が多い。東京の前身、江戸は17世紀前半に徳川氏によって建設された町だから、東京には四百年を超えるような老舗はないが、千年の都、京都にはさらに古い歴史を誇る老舗は枚挙にいとまがない。京都人に言わせると、京都では、幕末、明治頃に創業した店は「老舗」の部類に入らないそうだ。
大阪には現存する「世界最古の企業」があることを皆さんはご存知だろうか?
大阪市天王寺区にある金剛組(こんごうぐみ)という建設会社は、神社仏閣建築の設計・施工、城郭や文化財建造物の復元や修理等を主に手がけている。この会社は西暦578年、四天王寺を建立するために聖徳太子によって朝鮮半島にあった国、百済(くだら)から招かれた3人の宮大工のうちの1人である金剛重光により創業された。かれらの手によって四天王寺は593年に創建されたのである。その後、江戸時代に至るまで四天王寺お抱えの宮大工となった。豊臣秀吉が大阪城を築城した際も金剛組が建設に携わったと伝えられている。近年、金剛組は倒産の危機に直面したが、他の建設会社の支援を受けて現在でも宮大工を抱えて社寺等の建築、修理を行っている。世界には中国、インドなどのように、日本よりも古い歴史を誇る国はあるが、1400年もの長い歴史を誇る企業は日本以外どこにも存在しない。
金剛組ほど古くはなくても、日本各地にはさまざまな工芸品などを製作する技術者たちが日々黙々と技術を磨いている。たとえば、刀鍛冶の備前長船、有田焼の酒井田柿右衛門や薩摩、川内の薩摩焼、あるいは京都や加賀の友禅染や西陣織などはよく知られている。
これまでは伝統的な技術者について述べて来たが、現代の名工たちを忘れてはならない。現代の名工たちは、東京都大田区や大阪府東大阪市などの町工場にいる。彼らの多くは名もない町工場の親父さんたちだが、彼らの技術がなければ、アメリカのNASAは宇宙ロケットを打ち上げられないのだ。世界最先端の技術は東京や大阪の下町にある町工場の技術が支えているのである。近年これらの町工場ではみな後継者不足に悩んでいる。町工場の経営者のなかには、海外に移転して技術を伝えようとしている向きもあると聞く。
日本は前近代から、このような職人、技術者たちを大切にしてきた伝統を持っている。
ひとつの例を挙げよう。
さきに述べた有田焼は、豊臣秀吉の朝鮮出兵、いわゆる文禄・慶長の役(1592, 1598年)で朝鮮に渡った肥前国主、鍋島直茂が現地で道に迷った際に鍋島の軍を助け、その縁から引き上げの際に日本に連れて来られた朝鮮人の陶工、李参平(りさんぺい)が、日本で初めて白い肌の陶磁器「白磁」を作ったことに始まる。現在では「陶祖」として崇められ、有田の陶山神社の祭神として祀られている。また現在でも李参平の第14代目の子孫が有田の地に現存して窯業を継承している。現代とは異なり、朝鮮半島出身者に対する差別意識が強かった戦前でも、一貫して朝鮮半島出身の李参平が陶祖として崇められてきたことは特筆すべきであろう。
同様に、鹿児島県川内(せんだい)市の薩摩焼窯元沈壽官(ちんじゅかん)家の始祖である初代・沈当吉は、やはり李参平と同じく慶長の役の際、慶長3年(1598年)、島津義弘によって朝鮮国から捕虜として連行された一人である。彼の子孫は、他の朝鮮人の子孫と同様に朝鮮風の氏名を代々受け継ぎ、苗代川に居住することを薩摩藩から命じられ、代々当主は「沈壽官」を名乗った。現在、第15代目の沈壽官が窯業を受け継いでいる。身分制度が厳しかった江戸時代にも朝鮮風の姓を改めることなく、また薩摩藩の手厚い保護を受けて来た。
ところで、ヨーロッパにも日本同様に職人、技術者を大切にしてきた国がある。それはドイツである。
ドイツでは、各種の技術者たちは国家認定のマイスターという資格が与えられ、社会も彼らを大切にする伝統がいまも生きている。その範囲は日本よりもはるかにはば広く、パン職人や調理師などにも及んでいる。ドイツの街角にあるパン屋さんに入ると、店の正面に、この店の主人がマイスターの称号を持つ誇り高きパン焼き職人であることを示す賞状が高々と掲げられているのをしばしば目にする。第二次世界大戦前には、医学をはじめ、ドイツの科学技術は世界有数の高水準にあった。戦前、ドイツのユダヤ系科学者たちがナチスの迫害を受けて、アメリカに亡命し、彼らが伝えた技術が後のアメリカの宇宙開発技術の基礎を作ったことはよく知られている。
ところで、お隣の韓国の首都ソウルは古くは統一新羅時代(7-10世紀)にはすでに「漢陽」(ハニャン)と呼ばれる都市になっていた。その後、高麗時代(10~14世紀)には副首都にもなり、李朝朝鮮国成立後の1395年に「漢城府」(ハンソンブ)として首都となった。その後、20世紀前半の日本統治時代には「京城府」(けいじょうふ)と呼ばれていたが、現在に至るまで朝鮮半島随一の中心的都会である。高麗時代からの歴史を含めると、その歴史は1000年以上となり、京都にも匹敵する古都である。そのような古都ソウルにはさぞ奈良や京都に見られるような老舗があるだろうと想像されるかもしれないが、意外なことに、日本でいうような老舗はまったく存在しないのである。
李朝朝鮮という社会は厳格な身分制度に基づく儒教体制の国であった。そこでは「両班」(ヤンバン)と呼ばれる士大夫階級が社会の中心であった。彼らにとって「出世」とは科挙(かきょ)と呼ばれる官吏登用試験に合格して王朝政府に仕える役人になることであった。同じ頃、日本の徳川幕藩体制下でも士農工商という身分制度があったが、その一方で江戸や大坂などの都市では商人たちが力を持つようになっており、都市住民によって歌舞伎などの庶民文化が花開いた。一方、朝鮮国では儒教の教えを厳格に守る士大夫が支配していたから、その社会は農業を基盤とする農本主義であり、商業や庶民文化が発達する余地は殆どなかった。日本では歌舞伎役者は、建前上は「河原乞食」(かわらこじき)などと蔑まれていたが、実際には大都市には劇場が建てられ、役者たちは社会からもてはやされた。しかし李朝朝鮮国では首都ソウルにも、他の都市にもただ一軒の劇場も建てられることはなかった。芸人たちは「広大」(クワンデイ)と呼ばれ、職人などとともに賤民として蔑まれた。彼らは定まった住居すら持つことを許されず、放浪芸人として生きるしか方法がなかったのである。ちなみに、現在ソウル市で最古の劇場はソウルの繁華街明洞(ミョンドン)にある国立劇場だが、これは日本統治時代に建設されたものである。そもそも李朝朝鮮国時代には繁華街明洞は存在しなかった。明洞は戦前「明治町」と呼ばれる日本人が作った町で、戦後、韓国風に「明洞」と改名したものである。また現在ソウルで一番高級な百貨店として知られている新世界(シンセゲエ)百貨店は日本統治時代の三越百貨店京城店の建物をそのまま使っている。
李朝時代のソウルには、現在の中区鐘路(チョンノ、しょうろ)一帯に王宮や貴族の屋敷へ納める必需品を商う御用商人の店が十数軒あるだけで、それ以外に商店街のようなものはまったく存在していなかったという。一般庶民たちは野外の市場で、なかば物々交換のような形で必需品を手に入れていたようである。現代の南大門市場や東大門市場などがその名残である。
このような伝統がある韓国社会では、商店の店主たちも、自分の息子に商売の跡を継がせようというような気持ちは殆どない。商売で出た儲けは息子の大学教育や留学などにつぎ込み、将来は「現代の両班」である政府の公務員や大企業の社員にさせようと必死である。したがって「老舗」と言ってもせいぜい朝鮮戦争以後の1950年代後半に出来た店ぐらいしか存在しない。
私はここで現代の韓国や朝鮮文化を蔑視するつもりは毛頭ない。ただ、韓国と日本とはよく似ている点も多い社会だが、このような点で根本的な違いがあることをよくわきまえておく必要がある。
日本の陶磁器製作の技術は主として朝鮮半島から伝えられたものである。その本家、朝鮮半島では今日国立博物館に展示されるような陶磁器の名品も数多く存在するが、それらの作品を製作した陶工たちの名前はまったく伝えられていない。それに反して、文禄・慶長の役で捕虜として、心ならずも日本に連れて来られた李参平や沈当吉が今日日本では陶祖として崇められているのはまことに皮肉である。
日本は聖徳太子の昔から、職人、技術者を大切にしてきた国である。この伝統はぜひ将来も守って行きたいものである。この点で、大田区や東大阪市の町工場の親父さんたちが後継者不足から次々と廃業を余儀なくさせられているのは由々しき事態である。現代日本の技術は彼らによって発展し、支えられてきたのである。町工場の衰退は日本の産業の基礎が崩壊して行くことを意味すると言っても過言ではない。日本政府はこのような中小企業をもっと大切にするべきである。職人、技術者を大事にしない国は亡びる。
upasaka 亨