生老病死。「病苦」 -寄稿 4

しばらく間が空いてしまったが、また投稿を再開します。

じつはこの間、私は入院、手術を受けた。経緯は以下の通りである。

去る3月に長年通院して検診を受けている慶應義塾大学病院の担当医師から、「心臓に少し異常が認められるので心エコー検査を受けてみてください」と言われた。

私はいまから18年前の5月に東京の路上を歩いていた際に、突然胸と背中に強い痛みを感じてその場に倒れてしまった。幸いすぐそばのマンションの

守衛さんに頼んで救急車を呼んでもらい、まもなく私は東京、信濃町にある慶應義塾大学病院に緊急搬送された。そこで、私は

解離性大動脈瘤であると診断された。つまり大動脈にこぶが出来て血管が内破裂したのである。この病気は手当てがすばやく適切に行われないと約7時間で死亡するという恐ろしい病気であるが、私の場合、幸いに処置が早かったので、九死に一生を得たのである。それ以来ずっと毎日6種類の降圧剤等を服用し、過激な運動や暴飲暴食は控え、

減塩、カロリー制限食を務めて摂るようにして、養生に努めてきた。幸いにその後この病気が再発することもなく、18年間、3か月毎に

通院して健康管理に努めてきた。

しかしながらこの度は、心臓につながる大動脈が膨張し、心臓と繋がる部分の弁が開閉不全になっているという。このまま放置すれば、

半年か一年以内に心臓麻痺か心不全を発症して死に至る、と医師から警告を受けた。

そこで、家族や勤務先とも相談したうえ、7月末で大阪の勤務先を一時休職扱いとしてもらい、8月初旬に慶應義塾大学病院に入院し、

8月8日に開胸手術を受けた。医師の事前の説明によると、心臓につながる大動脈の一部と心臓弁を生体のものに取り換える手術であるという。

手術の危険度は5%で、成功すれば今後すくなくとも10年から15年は健康で生存できるとの話だった。

私は医師を信頼し、すべてを担当医師に任せていたから、格別の心配はなかったが、家族や友人たちは大いに心配してくれたらしい。

手術は朝9時ころから夕方まで前後8時間にもわたる大手術だったが、私はその間、麻酔で眠っていたのでまったく記憶はない。

手術終了後、集中治療室に移され、麻酔がさめた時のことは意識が混濁しており、あまりよく覚えていない。

当初、私は、麻酔が醒めたらけろりと治っているくらいに簡単に考えていたが、それは大きな間違いだった。

集中治療室で意識が戻ったら、自分はベッドに寝かされ、体には幾本もの点滴や心電図のコードがつながれていた。

また口から気管を確保するための管が挿入されているから一切声は出せない。飲食はできず、鼻から胃に直接栄養を補給している。

数分ごとに咳が出るのだが、自分ではタンを出すことができないので、その都度、看護士に頼んで吸引してもらうしかない。

その苦しさは、まことに地獄の苦しみとはこのようなものか、と実感した。夜は強い睡眠剤のために眠れたが、翌朝起きればまた

地獄の苦しみが待っている。このような状態がほぼ5日間続いた。

この間、家族や医師らとの会話は筆談のみである。声には出せないが、ベッドの傍らで手を握ってくれる妻や息子の手を握り返す時、

家族のきずなを感じた。

医師から、「今日は管を取りますよ」と言われ、管が抜かれた時の喜びは何物にも代えがたい。

管が抜かれても、すぐには声がでない。初め発声訓練をして、次第に声が出るようになった。

管が外れた日から丸一日、今度は酸素吸入で肺を膨らませる措置が取られた。口と鼻に防毒マスクのようなものをつけて、そこから

常時強い風が吹き出し、強制的に肺に空気を送り込むようになっている。まるで台風のなかにいるような感じだが、

それでも管が入っていた時に較べればまるで極楽であった。

まことに地獄、極楽はあの世にあるのではなく、我々の身近なところ、この世にあることを実感させられた。まことに得難い経験だった。

こうして一か月と一週間あまり入院生活を送った後、9月初旬に退院して自宅に戻って来た。

これから約半年、自宅で療養生活を送りながら、リハビリと通院することになる。

妻があらかじめ退院前に書斎にレンタルの介護ベッドを入れてくれたので、快適な療養生活を送れる。

これまで時間がなくて読めなかった本をゆっくり読むことができるのは怪我の功名である。

人生には、時としてこのような休養と振り返りの時間が必要なのかもしれない。

しばらく間が空いてしまったが、また投稿を再開します。

じつはこの間、私は入院、手術を受けた。経緯は以下の通りである。

去る3月に長年通院して検診を受けている慶應義塾大学病院の担当医師から、「心臓に少し異常が認められるので心エコー検査を受けてみてください」と言われた。

私はいまから18年前の5月に東京の路上を歩いていた際に、突然胸と背中に強い痛みを感じてその場に倒れてしまった。幸いすぐそばのマンションの

守衛さんに頼んで救急車を呼んでもらい、まもなく私は東京、信濃町にある慶應義塾大学病院に緊急搬送された。そこで、私は

解離性大動脈瘤であると診断された。つまり大動脈にこぶが出来て血管が内破裂したのである。この病気は手当てがすばやく適切に行われないと約7時間で死亡するという恐ろしい病気であるが、私の場合、幸いに処置が早かったので、九死に一生を得たのである。それ以来ずっと毎日6種類の降圧剤等を服用し、過激な運動や暴飲暴食は控え、

減塩、カロリー制限食を務めて摂るようにして、養生に努めてきた。幸いにその後この病気が再発することもなく、18年間、3か月毎に

通院して健康管理に努めてきた。

しかしながらこの度は、心臓につながる大動脈が膨張し、心臓と繋がる部分の弁が開閉不全になっているという。このまま放置すれば、

半年か一年以内に心臓麻痺か心不全を発症して死に至る、と医師から警告を受けた。

そこで、家族や勤務先とも相談したうえ、7月末で大阪の勤務先を一時休職扱いとしてもらい、8月初旬に慶應義塾大学病院に入院し、

8月8日に開胸手術を受けた。医師の事前の説明によると、心臓につながる大動脈の一部と心臓弁を生体のものに取り換える手術であるという。

手術の危険度は5%で、成功すれば今後すくなくとも10年から15年は健康で生存できるとの話だった。

私は医師を信頼し、すべてを担当医師に任せていたから、格別の心配はなかったが、家族や友人たちは大いに心配してくれたらしい。

手術は朝9時ころから夕方まで前後8時間にもわたる大手術だったが、私はその間、麻酔で眠っていたのでまったく記憶はない。

手術終了後、集中治療室に移され、麻酔がさめた時のことは意識が混濁しており、あまりよく覚えていない。

当初、私は、麻酔が醒めたらけろりと治っているくらいに簡単に考えていたが、それは大きな間違いだった。

集中治療室で意識が戻ったら、自分はベッドに寝かされ、体には幾本もの点滴や心電図のコードがつながれていた。

また口から気管を確保するための管が挿入されているから一切声は出せない。飲食はできず、鼻から胃に直接栄養を補給している。

数分ごとに咳が出るのだが、自分ではタンを出すことができないので、その都度、看護士に頼んで吸引してもらうしかない。

その苦しさは、まことに地獄の苦しみとはこのようなものか、と実感した。夜は強い睡眠剤のために眠れたが、翌朝起きればまた

地獄の苦しみが待っている。このような状態がほぼ5日間続いた。

この間、家族や医師らとの会話は筆談のみである。声には出せないが、ベッドの傍らで手を握ってくれる妻や息子の手を握り返す時、

家族のきずなを感じた。

医師から、「今日は管を取りますよ」と言われ、管が抜かれた時の喜びは何物にも代えがたい。

管が抜かれても、すぐには声がでない。初め発声訓練をして、次第に声が出るようになった。

管が外れた日から丸一日、今度は酸素吸入で肺を膨らませる措置が取られた。口と鼻に防毒マスクのようなものをつけて、そこから

常時強い風が吹き出し、強制的に肺に空気を送り込むようになっている。まるで台風のなかにいるような感じだが、

それでも管が入っていた時に較べればまるで極楽であった。

まことに地獄、極楽はあの世にあるのではなく、我々の身近なところ、この世にあることを実感させられた。まことに得難い経験だった。

こうして一か月と一週間あまり入院生活を送った後、9月初旬に退院して自宅に戻って来た。

これから約半年、自宅で療養生活を送りながら、リハビリと通院することになる。

妻があらかじめ退院前に書斎にレンタルの介護ベッドを入れてくれたので、快適な療養生活を送れる。

これまで時間がなくて読めなかった本をゆっくり読むことができるのは怪我の功名である。

人生には、時としてこのような休養と振り返りの時間が必要なのかもしれない。

しばらく間が空いてしまったが、また投稿を再開します。

じつはこの間、私は入院、手術を受けた。経緯は以下の通りである。

去る3月に長年通院して検診を受けている慶應義塾大学病院の担当医師から、「心臓に少し異常が認められるので心エコー検査を受けてみてください」と言われた。

私はいまから18年前の5月に東京の路上を歩いていた際に、突然胸と背中に強い痛みを感じてその場に倒れてしまった。幸いすぐそばのマンションの

守衛さんに頼んで救急車を呼んでもらい、まもなく私は東京、信濃町にある慶應義塾大学病院に緊急搬送された。そこで、私は

解離性大動脈瘤であると診断された。つまり大動脈にこぶが出来て血管が内破裂したのである。この病気は手当てがすばやく適切に行われないと約7時間で死亡するという恐ろしい病気であるが、私の場合、幸いに処置が早かったので、九死に一生を得たのである。それ以来ずっと毎日6種類の降圧剤等を服用し、過激な運動や暴飲暴食は控え、

減塩、カロリー制限食を務めて摂るようにして、養生に努めてきた。幸いにその後この病気が再発することもなく、18年間、3か月毎に

通院して健康管理に努めてきた。

しかしながらこの度は、心臓につながる大動脈が膨張し、心臓と繋がる部分の弁が開閉不全になっているという。このまま放置すれば、

半年か一年以内に心臓麻痺か心不全を発症して死に至る、と医師から警告を受けた。

そこで、家族や勤務先とも相談したうえ、7月末で大阪の勤務先を一時休職扱いとしてもらい、8月初旬に慶應義塾大学病院に入院し、

8月8日に開胸手術を受けた。医師の事前の説明によると、心臓につながる大動脈の一部と心臓弁を生体のものに取り換える手術であるという。

手術の危険度は5%で、成功すれば今後すくなくとも10年から15年は健康で生存できるとの話だった。

私は医師を信頼し、すべてを担当医師に任せていたから、格別の心配はなかったが、家族や友人たちは大いに心配してくれたらしい。

手術は朝9時ころから夕方まで前後8時間にもわたる大手術だったが、私はその間、麻酔で眠っていたのでまったく記憶はない。

手術終了後、集中治療室に移され、麻酔がさめた時のことは意識が混濁しており、あまりよく覚えていない。

当初、私は、麻酔が醒めたらけろりと治っているくらいに簡単に考えていたが、それは大きな間違いだった。

集中治療室で意識が戻ったら、自分はベッドに寝かされ、体には幾本もの点滴や心電図のコードがつながれていた。

また口から気管を確保するための管が挿入されているから一切声は出せない。飲食はできず、鼻から胃に直接栄養を補給している。

数分ごとに咳が出るのだが、自分ではタンを出すことができないので、その都度、看護士に頼んで吸引してもらうしかない。

その苦しさは、まことに地獄の苦しみとはこのようなものか、と実感した。夜は強い睡眠剤のために眠れたが、翌朝起きればまた

地獄の苦しみが待っている。このような状態がほぼ5日間続いた。

この間、家族や医師らとの会話は筆談のみである。声には出せないが、ベッドの傍らで手を握ってくれる妻や息子の手を握り返す時、

家族のきずなを感じた。

医師から、「今日は管を取りますよ」と言われ、管が抜かれた時の喜びは何物にも代えがたい。

管が抜かれても、すぐには声がでない。初め発声訓練をして、次第に声が出るようになった。

管が外れた日から丸一日、今度は酸素吸入で肺を膨らませる措置が取られた。口と鼻に防毒マスクのようなものをつけて、そこから

常時強い風が吹き出し、強制的に肺に空気を送り込むようになっている。まるで台風のなかにいるような感じだが、

それでも管が入っていた時に較べればまるで極楽であった。

まことに地獄、極楽はあの世にあるのではなく、我々の身近なところ、この世にあることを実感させられた。まことに得難い経験だった。

こうして一か月と一週間あまり入院生活を送った後、9月初旬に退院して自宅に戻って来た。

これから約半年、自宅で療養生活を送りながら、リハビリと通院することになる。

妻があらかじめ退院前に書斎にレンタルの介護ベッドを入れてくれたので、快適な療養生活を送れる。

これまで時間がなくて読めなかった本をゆっくり読むことができるのは怪我の功名である。

人生には、時としてこのような休養と振り返りの時間が必要なのかもしれない。

upssaka 亨