和尚さんは考えています。
和尚さんが考えていることは、修行僧の間では、定番の課題となる「執着と苦しみ」についてです。
「執着」は、何か特定の対象に対して、忘れず離さず頑としてこだわると言えばいいでしょう。
「苦しみ」は、心に感じる圧迫感、あつれき、喪失、失意、絶望、落胆、悩みとかそういう類いのものです。肉体的かつ外傷などの痛みではなく精神レベルでの心の変化と言えばいいでしょう。
この「執着と苦しみ」の課題は、毎日考えていまして、和尚の探求は、じつにしつこいです。解釈に至る答えが見えず、けっこう苦しんでおりまして、実際の実体験に対する心の苦しみ以上に、理論解釈に苦しんでいるという、まったく本末転倒な事態にあります。
和尚の少年時代の思い出ですが、ある日、祖母の手伝いをしたご褒美の小遣いで、洋菓子屋さんへ、ソフトクリームを買い行きました。ところが少年の心は嬉しさに弾みすぎて、手からポロリと、アイスの真っ白な部分だけ落としてしまい、大ショックで倒れそうになったことがあります。
さて、好きな物や、心に好ましい「対象」を不意に消失してしまうと、誰もが意気消沈してしまいますが、和尚の場合はやたらと腹が立ったものです。まあ、今でもけっこうな短気でどうにもなっておりません。
和尚は、それから二十代後半頃より、真面目に勉強しだすと、どの仏教書を読んでも、怒りとは「執着」から発生し、「執着」が起きる原因もあるという結論に、必ずいたります。
これらを説明する難しい理論(仏教論哲学『アビダルマ』)では、「執着」は「あたかも個体の様に、固有の自己認識『わたし』」があると「誤認」している状態から、『わたし』を「私」が認識すると説明でき、それを原因として「執着」を起こすようであります。
更に追求すると、全ての事象は「無常である」という真理を、智恵と心のバランスで応用できていないからだと説明できます。
謎かけのような理屈は古来より『仏教哲学』として成り立ち、しきりに研究されていることですから、理論に没頭しすぎると、「執着と苦しみ」を解決するために、解決の理論にこだわりすぎて、「理論に執着」なんて、またしても本末転倒な事態になってしまいます。
閑話休題
和尚のこの頃は「執着と苦しみ」の課題への取り組みは、頭が凝り固まりすぎて墓穴をほった感じがしますな。
沐浴に温泉で頭をほぐしたいですわ。
お釈迦様、大師ら尊者たちよ
ありがたや
(絵)「和尚、日帰りでいいから、温泉で沐浴したい願望の絵」。和尚、たまに頭の休息で絵を描く。