あるとき和尚さんは考えました。
屋根がある建物に住み、暖を取ることができ、電気は通り、水も出る。食べものもある。これはとても有り難いことだ。
今から13年前に、和尚はスリランカの僧院に弟子として受け入れてくれた。念願の上座部派の僧侶であった。1年間は「沙弥(しゃみ)」という呼称で呼ばれる見習い僧であったが、弟子にしてくれたことだけでも心底ありがたく思えた。
僧院での生活では、水は井戸から汲み、その水を飲むときは、薪の火で沸かした。電気の事情は、なぜだか停電になることが多かったが、仲間の僧侶達は誰一人として停電で騒ぐ者はいなかった。食べ物は檀家さんから届けられた「布施(供物)」を皆で分けて食べるのが、スリランカ伝統の食事であり、ゆで卵が人数分に分け与えられない場合は、分割して分けた。質素なものであったが、有り難いことにお腹いっぱいになったのだ。
「一杯の水を飲むのは貴重。」「カップに注いだ水は飲みきる。」
和尚自身、恥ずかしい話だが、何年も高野山で修行をしたくせに、歳を重ねて辛い経験を忘れた、いつのまにか、ちょっとだけ残したりして、日本での生活を思い出しては「もったいないことをしたいた」と思い巡らしていたことを思い出していた。
スリランカでの生活で、水を井戸で汲んでくるのは大変なことではないが、必要な分だけ考えて水を汲むことの違いとは、自身の備える「質と量」を全く変えるのである。少ないことをケチとは言わない。ケチとは分け与えないことであり、自分の量分しか持たないことである。
ある日、スリランカの和尚の兄弟子は、自分が飲む水を、摘んできた花をさした一輪差しに注ぎ、お釈迦様にお供えするのを見て、私、和尚が何故に生きる苦痛を感じるかを実感した。
和尚が生きている間に感じた精神的な苦痛の原因は、あきらかに「取り過ぎ」であったことである。万人対してにわかりやすく言えば、「幸せの取り過ぎ」と表現したらいいであろう。例えば「水」を例に挙げても、生活に、水があふれすぎて、飽和状態になり、一定の満足を感じとることができる境界を越えれば、かならず余すのである。その状態になると、精神的な苦痛を生むのである。ほどよい状態を越えることが「幸せの取り過ぎ」と言えばいいであろう。
和尚は、一人の偉大な師匠がいることでこの上ない幸せを感じている。二人も三人も優れた師匠が欲しいとは全く思わない。例えば、1つを取れば、その1つだけで満足することと同じように、水を飲める分だけ注いで飲む。とても単純なことだが、飲めない分を水遊びに使うことを、和尚の師匠は絶対にしない。師匠が、常に飲める分しか水を注がないのは、絶妙な生きる智恵である。
和尚の寺の食堂では、来られる方に水を出す。当たり前のことだが、「なんだ、水か。お茶はまだか。」「水も出さないのか」と思うとしたなら、きっと貴方は自分の生活に満足できないであろう。水を飲めるだけでも有り難いと思えるように過ごせるなら、どんな場所にいても、必要な幸せを維持できるであろうと和尚は思う。
取り過ぎてはいかん。
取り過ぎたら、自分が、必ず、苦しむ。
飲食を残す癖がある人は、コップに注がれた水を「最後まで飲みきる」癖を付けたほうがよかろう。和尚は高野山での日々を思い出すようにしている。「一滴の水も粗末にしてはならない」と教わったことを。
和尚は、拝むこと、作務も、人間関係も1つのことに専念するのが性に合ってる。いわゆる、単純だ。単純だが、有り余る財産や、物や、人にあふれる人よりは、生きることが苦しいとは感じない。僧侶生活は僧侶同士が互いに、学んだことを一途に専念することが必須であるため、学んだ教戒は生涯努力したい。
※写真 10年前。停電中、ロウソクで勉強していた頃。
これでも、光がありがたかったのぉ (撮影/兄弟子)