和尚さんは考えました。
和尚さんが着用する衣を「袈裟」と言いますが、和尚さんは日常からスリランカ仏教の袈裟を着用しています。
和尚さんは、真言宗の僧侶でもありますので真言宗の袈裟を着用するの手段なのですが、スリランカの袈裟を着用しての実生活は、身動きしやすいです。
大小の二枚の布を身体に巻き付けるだけですが、一方で真言宗の僧侶が着用する袈裟は、和装で、振袖の部分が多いため作務が多い実生活には不便な部分もあります。
和尚さんは日常からスリランカ仏教の袈裟を着用していますので、真言宗の袈裟は用途や儀式の目的によって種類分けされた袈裟を着用しています。
お坊さんが着用する袈裟の起源は、お釈迦様の時代にさかのぼります。仏教初期の袈裟を構成する布一枚一枚は、「使い捨てられた布」、つまり、ボロぎれの縫い合わせで作られてものであったと言われています。
ざったに言えば、雑巾の寄せ集めみたいなものが袈裟であったのです。
古い仏教経典には、死体を巻いていた布、使い捨てられた布、赤子のオムツ用に使った布などと書かれてあります。
それらボロ布を拾ってきたか、もらい受け、洗い、裁断して縫い合わせて着用していたとありますが、実際は、古着を裁断して縫って染めたか、キレイな余り布をもらって縫製していたのだと思いますね。
インドの環境は一年中暑いわけですから、綿花の産業もあったでしょうし、ウコン(ターメリック)や、花や樹皮の染料は容易に手にできたと想像できますから、わりとキレイな布を縫い合わせて、染めていたのかもと思う方が自然な流れかなと思います。
インドの修行者達が、使い捨てられた布、ボロ切れを縫い合わせて衣(袈裟)を着用していた理由は、人が手放した物には、誰も執着心を持たないという理由であります。
例えば、人が物や地位、名声、役職などを手にするときには、大事にする、おごらない、ごうまんにならないなど、なにかしら心がけを持つように、お釈迦様は修行者が衣服を着るときにも「執着しないぞ」という心がけを大切にされたのだと思いますね。
お釈迦様は最も賢い御方でありますから、物の対価以上に、人が手にするとき、使用する目的に着目されています。実際は心がけさえ万全であれば、物が新品であろうがボロ切れであろうが、それが重要ではないのです。
例えば考えてみれば、もし自分が大好きなアイドル歌手から、コンサート会場で汗だくのボロ切れのハンカチをつかみとったら、ファンなら乱舞狂乱し、うれしくて大事にしますよね。持ち帰って、ショーケースにでも入れて飾りたいくらいでしょう。
実際は汗まみれのボロ切れです。受け取る人の心がけしだいで、物の対価は無限に広がりますよね。
お釈迦様は、物の対価を価値づける自身の心がけをコントロール制御するために、あえてボロ切れを使うことを手段として採用されたわけだと和尚さんは考えています。
物を大切に使用することと、物の価値を決めるときの心がけは全く別な心構えだと思います。例えば和尚さんの師匠から譲り受けた袈裟に対して「これは単なる布だ!」と見て、価値づけて、あえて粗末に扱うことは違いますよね。それはむしろ物に対する執着があるから雑多にするわけです。
いわゆる理論への執着でございまして本末転倒な事態です。
その点、私の師匠は賢者ですから、こう言ったことがあります。「これは袈裟で、君の身体にぴったり合うはずだ。使えるようなら自由につかいなさい」と。
つまり、自分の都合のいいように相応しい形で使いなさいということであり、身体に合わないのなら誰かに譲ってもいいし、使い古して捨てるならかまわないという意味でありました。
しっかりと、意味合いと解釈、仏教の法の視点から智恵を教えていただける師匠の存在はありがたいです。
さてさて、和尚さんが着用するスリランカ仏教の袈裟は、毎日使用し、毎日洗濯しますから、袈裟としての使用耐久年数は、およそ3年から4年です。
現在3枚の袈裟を循環して使っていますが、この3枚全てが、ボロッッッッッボロで、どーーーーしようもないくらい、ボロッッッッッボロになりまして、ついに普段着用には不向きな状態になりました。
3枚のうち、1枚は信徒さんが縫製してくれましたので、あらゆる手直しをしてきましたが、もう限界でして、朝のお経の時間に座る度に、ブチっ・・・ブチブチと糸が切れてどうしようもならなくなっている状況です。
下着のパンツが見えるくらい破れております。近所のコンビニに行くのもまずい状況でございます。
これは、いわゆる、糸自体が限界なわけですね。
使い古いした袈裟は、ハンカチ大に裁断して、ハンカチにしようか、そのまま捨てようか考えていますが、「袈裟に執着しては覚れないから必ず捨てるのだ」という理論にさえも執着したくもないので、気軽に考えてどうしようか決めます。
たぶん、ハンカチか、枕カバーにすると思います。
とりあず日常から使う新しい袈裟は、至急に必要だったので、旭川市内の衣服の縫製業者に作ってもらい安堵しています。
新品の布で作られた、ま新しい袈裟を手にした場合には、着用する前に点浄(てんじょう)というマーキングを、墨やペンで布に付けてから使用するという方法が袈裟に関する規則にあります。
点浄を付ける意味は、新しい布の世間的な対価を無くすために、あえて汚れを意図的に付けるわけです。たとえば洋服の販売でいうところの、汚れたり、一本でも糸がほつれた品は販売には、新品の対価を失い、不向きになる理屈と同じです。
スリランカ仏教の場合は、葉っぱの液を金属製の物か堅の物で汚れを付着させます。私の師匠はカギを使ってましたので、それを真似て、樒(しきみ)の葉っぱと、カギを使って汚れとなる点浄をつけました。
真言宗の場合は、筆と墨を使って、●や、梵字など書きます。
今回は、両方の方法を採用して付けてみました。
さて、明日から、破れた袈裟の合間から、下着のパンツが見えるくらい破れたボロッッッッッボロの袈裟は着ずに、新品を着用します。
古い袈裟、新品の袈裟にも特に執着は感じておりませんが、古い袈裟は枕カバーにして、縫製者、布施者の功徳を最大限生かすために、他に使い道に使う段取りをしています。
お釈迦様、弘法大師ら偉大なる尊者達よ
ありがたや