和尚さんは、毎月一回、寺子屋道徳塾を開催しています。
今月10月は、9日(土)の開催です。
仏教が伝える道徳を教えることは、お釈迦様の教えを伝えることにつながるものだと信じています。
和尚さんは、仏教が伝えるところの原点を探るためにスリランカでも尊者達から教わっていますが、お釈迦様や弘法大師ら尊者達が伝える仏教が目指す教えには「人間の幸せ」を追求しているところにあります。
仏教が広く世間に知れ渡ってから時代が過ぎていくと「我とは」や、「意識とは」「霊魂とは」「有とか無」など、「哲学」としての分野も完成されていくようになります。
ですが、哲学としてまとめられる以前の、主たる根本原因が必ずあるところに、和尚さんは長年注目しています。
仏教哲学には「縁起法(えんぎほう)」という「存在」を説明する理論がありますが、この内容は「これがあるから、これがある」という、誰が聞いてもわかる程度の内容の、因果関係を示した理屈が知者によってまとめられたものです。
たとえば例に挙げた「縁起法(えんぎほう)」は、物事や実体験の「なぜ起きた」に対するお釈迦様の回答を知者によってまとめられたものだと今、説明しましたが、実際のお釈迦様が伝えた「因果関係」の実際の例というのは、誰が聞いても納得できる説教であったはずだと思っています。
つまりはこうです。「人を殺すと、死刑を受けたり、生きては人々から恨まれ、復習にあう」「物を盗むと信用を失い財産も失う」「不倫や浮気をしたら、人々から非難されて、なにかと損も増えて息苦しく卑屈な人生になる」「ウソを言えばつじつまのあわない結果になる」「人の悪口を言えば性格が悪くなり顔つきも悪く、高尚とか高品質などという良質な人生の巡り合わせから遠くなる」という程度の話であるはずなのです。
これらの実例はまさしく「これがあるから、こうなる」という因果関係のことを示している教えであります。
ところがです。お釈迦様の教えられた内容を「高度に」「崇高に」「間違い無く」伝えるために後の弟子達(尊者達)は、ものすごく真面目に考え、智恵をしぼりだして、ある一つの教えを「体系化」していくようになります。むしろ自然に、そうなるのです。
それが仏教哲学としての立場を持つようになるのです。例えば「アビダルマ」とか「倶舎論(くしゃろん)」などは仏教哲学の代表例です。
簡単な事例を、哲学的にまとめたというのは、例えば「窃盗して逮捕されて、信用を失い、やがて不幸になる」という一つの実例に背景があると考えるようになります。
1、窃盗した人の人生背景がある。親(先祖代々にまでさかのぼって)、親戚、教養、友人、気候風土、食べ物等々
2、窃盗した人の心(思ったこと考えていること)の作用(どうしてそうなった)
3、盗もうと行動したその人が何に執着して、自分(我)をどう捉えていたか
4、実際に窃盗してから、次の何らかの結果にいたるまでの時間(過去、現在、未来)と、その起きた内容への言葉による立証
5、盗んだ人が逮捕されたとき、からその後の人の心の作用と、意識する認識の行き先と効果と余韻
6、「信用」という実体はあるのか、ないのか、それは仮にあっても何か、どう他に作用するか
7、「不幸」とはなにか、なにに基づいて不幸と立証できるか、不幸の定義と、不幸が実体として存在するのか否か
8、窃盗人の心や意識は、その後の時間の経過と実体験に接したとき、どう対処していくのが最善か
9、そもそも「心」とは何か何をもって心というのか、心をとらえる「我」というものじたいが、「作用の連続性を理論として立証しなければ因果関係の本質が立証できない」
10、結局、「心」とか「意識」とか「業」とか、確固たる一つの答えがわからん。(おてあげ)
等々、知者たちはこのように「哲学」として考えていくようになりますが、これは不真面目でもなく遊びでもなく、ものすごく真面目に時間をかけて、追求すると、必ずこうなるのです。
和尚さんは、これを「終着のない学問」と考えていますが、必ずと言っていいほど、こうなるのです。和尚さん自身も、この泥沼にはまっていましたから、よくわかるのです。
和尚さんの哲学への結論は、「時間の浪費で、現実の人生問題の解決には意味がない」です。苦行は意味ないという持論も、実体験上もっていますが、それと同じくらい、意味ないと思っています。
閑話休題
お釈迦様は仏典の記録の中で、次のように述べられていたようであります。(屁理屈者への回答)
「弟子達よ。これがあるから未来があり、これがないから過去もない。これがある場合、これが無い場合、この先はどうなるか、来世はどうなるか。などと考えることは、まったく意味が無い」と言っています。これは「哲学的に考えすぎるな」という意味であると和尚さんは理解しています。
お釈迦様は、もっとずっと前から「行為によって未来が変わる」と簡潔に述べられています。
そこで、古きインドでお釈迦様は、大衆や質問者を見て、こう考えられたのです。
「行為によって以来が変わるということでも頭を悩ますのであれば、私が確信するところの、よい未来をつくるための行為と、悪い未来になってしまう定義を、簡単につたえたらよい。それだけでよい」と考えられたはずです。
それが、幸せになりたいのなら、「殺すな」「盗むな」「不倫や浮気をするな」「ウソを言うな」・・・云々であります。(五戒、十善戒のことです)
じゃあ、これができないなら、幸せになりたいなら、「恨むな」「憎むな」「ケンカするな」と教えてくださいました。
じゃあ、それでもわからない、できないななら「修行僧や貧しい人に施しなさい」「供養をしなさい」「瞑想して落ち着きなさい」と更に教えてくださいました。
じゃあ、それでも、まだわからん、できないのなら、全てを捨てて修行者となればよい。と、出家の道を教えてくれました。
じゃあ、それでも、まだしつこく嫌だ無理だ。というのなら、思うがままに生きたらいいでしょうが、そのままだとあなたは、何も変わっていないので、苦しみ、不幸を招きますよ。残念です。どうか幸せであれ。「あなたの業(決断と結果)は、あなたのものです」とおっしゃいました。
という、流れになったはずです。
そういうわけで、和尚の考えは、さほどずれた論点でもなく、そこそこ理屈通った話だと思いますよ。
和尚さんが、なぜゆえに「寺子屋道徳塾」が仏教を伝えるうえで、重要になるのかという意味が伝わったのであれば嬉しいです。
五戒や、十善戒という人としての戒めによる行動と、その結果に「幸福」が生まれるものだと思いますね。
お釈迦様や大師らが伝えられているところの、誠実であって正しい指針をもった人生を送れば、人生はコケないと和尚は持論を持っています。
苦しいことが起きて、転んで損してるようであっても、絶対に損はしていませんよ。
善良な人生も、必ずつじつまが合うものです。
こう整理するとわかるように、人間一人の幸せは、自分一人だけでは成り立たず、一人では生きられないということも言えます。同じ事をチベットのダライラマ法王もおっしゃっていますが、お釈迦様の教えの通りですね。
このお釈迦様の理屈を、和尚さんは信じています。
お釈迦様、弘法大師ら、偉大なる尊者達よ
ありがたや
【寺子屋道徳塾の案内ページへ】http://koubousyouja.org/3042-2/
(写真)和尚さんの手作り、寺子屋用の教科書。ローソク入れの箱が、バッチリさ。