和尚は、和尚が積極的に会う人は限定しています
和尚が積極的に会うと決めてる人その人達とは、相手の年齢、職業、性別、人種に全く関係なく、その人が知的で、前向きであり、好奇心あり、努力していて、素直であり、寛容で、皆の利益を考えていて、真剣に生きている人であることです。
そうでない人と会うのがはっきり言って極めて面倒なので、会うのを避けるか、会っても会釈程度で時間の接点を最大限短くしています。
もっと詳しく言うと、批判的で、攻撃的、恨み深く、嫉妬深く、悪口ばかり言い、人の過ちを頑として許さず、人をけなし、おとしいれ、人の利得を利用してセコくてズルい人との接点のことを意味しています。
人生は和尚の目指す幸せの意味で、有益でなければなりません。
和尚は、自分の人生も含めて、人の人生が有益であってほしいし、誰にとっても安心して、穏やかで、お互いを思いやる有益な社会を理想として心に置いてます。
閑話休題
和尚は前向きに真剣に生きてる人を応援してます。
苦しみながらも頑張っているなら、なお共感しています。
和尚は、自分の悩む苦しさを他人には理解されず、自分が思う責任感で頑張った結果、結果的に判断を誤り、失敗をしたり、ひどい過ちをしても、和尚は責めないし否定をせず話を必ず聞きます。
なぜなら和尚自身も、いろいろと、たくさん経験してきたからよくわかるのです。
思い出すだけでも嫌なことも、ひどい過ちから、結果的に人を傷つけてしまったり、たくさんの苦い経験をしてきたから、真剣に生きながら結果的に苦しむ人の気持ちがよくわかるのです。
そうであるから、和尚は真剣に生きる人に限り、苦しくて、辛いからこそ出てくる率直な気持ちを聞くきます。それがたとえ他人が聞いて「悪口」であっても、和尚は悪口ではないと理解して心の声を聞きます。
しかし、和尚が絶対に聞かない話があります。
それは、遠い昔の解決されてる済んだ話をもちだし、過ちを犯した人の悪口や、あいつは悪かった、酷かったと、心底恨み、根拠のない噂話や、死んだ人の悪口、今は所在不明の人の悪口、それら悪意ある話は絶対に聞ききません。
人の過ちをいつまでも責めて悪口を言う人自身に限って、どれだけそれらの人より優れているのかと問えば、おおよそ全く優れた点はないでしょう。
自分が批判して悪口を言った相手が今は改心して、過去を悔いて前向きに生きているかもしれません。そうだとしたら、人を許さずいつまでも悪口の話のネタにしている人の方が比較にならないほど、悪口の行為そのものが悪いことなのです。
和尚は、そんな人に再び会うことはないでしょう。
親しくなることも共感することも決してありません。
話も全く聞かないでしょう。
無視さえするでしょう。
和尚は、性別や職業、年齢に関係なく、先を見て今を真剣に生き、真剣に生きようと前を向いて生きる人を応援してます。
人には言えないほどの過ちをして、それを悔いて、また修正しようと励んでいる人はたくさんいます。そういう人も含めて、真剣に前を向いて生きている人を応援してます。
また、和尚自身も新しいことにたくさん挑戦してきてます。
和尚が今も努めているスリランカ上座部派と真言宗の二つの僧籍で新しい布教の道を探るだけでも新しい挑戦です。難しく険しく、毎日が試行錯誤です。失敗もあれば、悩ましいこともたくさんあります。嫌なことなど、数え切れないほど、覚えてられないほどあります。
でも、和尚は自分がよかれと信じる道にあります。
新しいことに挑戦すると、批判をしたり、足を引っ張る人が必ず現れ、嫌みや誹謗中傷を受け、それで苦しみ悩む人がたくさんいることを知っています。
和尚は、新しいことに挑戦している人も含めて応援してます。
そうであるから、ネガティブ思考で、特に人の悪口を言い、無益な噂話、嫉妬深く、妬み深く、無益な会をし、人の過ちをいつまでも責めて、寛容ではない人とは接点を持たない方がいいでしょう。
生きていると嫌な人と会わざるを得ないはお釈迦様の言う通りであります。それは真実です。一方で、付随する解釈があり、嫌な人との接点を避けるために、接点の流れを変えること、自分で有効的な人の流れを修正することも重要なことなのです。
ましてや年齢を重ねればなおさらのことです。
人生の時間は有限なのです。
今を真剣に生き、努力するひとよ
幸あれ
自撮り。内容に特に意味なし。