和尚の小話・善行で自己修正力

自分の生活の日々の流れが変わるときは、身の回りが騒がしくなるものだと思います。

それは例えば、物が壊れる。ケガをする。物質的に損失する。人付き合いが変わる。離れたり、出会ったり。することを指します。

これらの出来事のことを、形而上学的(霊験的)な視点として好む方もいるでしょう。

ですが、和尚の考えは、形而上学的(霊験的)な視点は、めったに、いや、ほとんど持ちあわせないため、もっと理論的に分析しまして、すなわち自己の周囲での出来事が騒がしくなるのは、それは全て思考に起因すると考えてます。

物が壊れたり、紛失や損失したり、ケガをする、人の流れが変わるということは、自己の思考のパターンが変化したことで、それまで慣れていな行動パターン(規則性)に、自分が明確に認識しない程度の若干の変化が起きたがための必然の結果であると、私は考えます。

原因には理由がある。これは仏法の鉄則です。

ですから形而上学的(霊験的)な作用は、ここでも論証されないと私は思いますね。

現在の和尚の身の回りでは、けっこうな頻度で何かと騒がしい事態が起きてます。

ひとまず、なるべく行動を制限し、あえて行動することは、できるだけいつもより善いことをしようと心がけます。

すなわちこうです。自己の身の回りが変化して、再構成される時ほど、すすんで善行を心がけて実際に行動し、自分の意志と信念が腰折れないよう、人生の流れに自己修正することを心がけています。

和尚のリンゴタルトのケーキ配りと、掃除と整理整頓の作業を増やし、実務としての仕事量を極端に落としている理由であります。

何かが壊れる、なにかが紛失する、または多量に偏って入ってくる、ケガをする、去っていくものに対しての、冷静な客観的視感と高尚かつ崇高な対処が重要でありましょう。

世間には自分が苦しい時や、自分の生活周辺がいちじるしく流動的な時ほど、自分の利得を損したくないがために、他人の利得を利用したり、損得計算をして他人の善意を搾取する人をよく見ます。

ですが、それはひじょうに悪いパターンだと言えるでしょう。短期的には難を乗り越えたとしても、すでに悪い方向へ向かっていることに気づくことはないでしょう。いったん、その悪い流れの循環にのってしまうと、そこから善い方向へ修正することは極めて困難なことだと感じます。

閑話休題

いずれによせ和尚は健康で元気ですが、とにかくおとなしくしてる日々です。

和尚が持ちあわせる幸せな人生には、いつでも善意と善行で自己修正力が欠かせません。

その根拠は、和尚の経験と師の生き方であります。

世尊、大師ら偉大なる尊者達よ

ありがたや