仏の伝えるところ

あるとき、和尚は考えました。

ほとけ、すなわちブッダ。

あるいは別名、如来。

あるいは別名、世尊。

あるいは別名、バガワー(薄伽梵)。

あるいは別名、お釈迦様は、布教を始められた当初より、ごく簡単で、わかりやいことを説かれていたものと、和尚は信じています。

すなわち、

人を殺してはなりません

他の生き物を、祭祀の為にいけにえ、食料のために食べもしないのに殺してはなりません

与えられていないのに、人の物を取ってはいけません

不倫をすることはよくないことです

浮気をすることはよくないことです

ウソをついて、人をだまして、あざむいて、搾取していけません

酒や薬物におぼれることはよくないことです

このように、その時代、その人々に、わかりやすく伝えられたからこそ、信頼されたものと和尚は信じています。

お釈迦様が在世の、その国、その時代には、人が人を奴隷にしたり、生き物を神にいけにえしたり、略奪、戦い、暴力、不倫や浮気などが、ごく日常に起きていて、人が人らしく生きるという当たり前の概念が通用しなかった時代だと言われています。

そのような時代に、人が人らしく生きるために、まったくもって明るく救いとして、お釈迦様が説かれたことは、極めて画期的であったと考えられます。むしろ、その主張には、社会構造を変えるほどの説得力があり、お釈迦様の主張を面白くないと思う者から命を狙われるほどの、とてつもない勇気ある主張であったのではないでしょうか。

また、我が国においては、偉大な修行僧である弘法大師空海さんが、『三教指帰』や『三学録』などを書かれた、大師の気持ちの意図からは、仏教が政治的に応用されようとも、仏の意志がつまった、仏教の教えによって、人が人として、人によって、真っ当で、誠実な世の中を実現されるようにと願ったものと、私は考えます。

弘法大師の書かれた文章が、論理的で、整合性あり、文法力も含めて、圧倒的な優れた知的な内容にまとめられているのは、朝廷や、知識階級の身分、または政治的権力者に、信頼され、納得してもらわなければならなかった為だと思います。

それは、弘法大師の、途方もない努力の結果と、信仰の表れであると思います。

私達、現代の僧侶は、それら大師や尊者達の文章を、自分のための研究とするにとどまらず、または僧侶のための修行のみにとどまらず、子供から大人まで、幅広い年齢の人々に「仏教」を伝える努力をしなければならないのではないかと思っています。

そのような思いから、和尚は、いまだ世間に「殺し」「言葉と力の暴力」「いじめ」「詐欺搾取」「不倫や浮気」「酒や薬物依存」などが日々起きている現状などを思い、9月より、学生向けの「寺子屋道徳塾」を開設する考えです。

私、和尚は、仏教の教えの中で、例えば「供養する」など伝えることよりもはるか以前に、仏教の教えの根幹の「教え」があるものと信じています。

学生向けの「寺子屋道徳塾」については、詳しくは後ほど掲載いたします。

お釈迦様、大師ら偉大なる尊者達よ

ありがたや

【写真】仏器を磨いて、元通りになった「大壇」