8月21日(土)の「食事付き法要の日」には、「チャーニーズ&スリランカ」という献立にしましたが、和尚さんは、調理に疲れたため、同じ献立を提供しようという意欲復活までには、1年近くかかるでしょう。
和尚さんは、調理や、読経、掃除にいたるまで、「まあいいか」と自分自身に、余力を持たせるよう言い聞かせながら作業をするも、「まあいいか」という中途半端なことがなかなかできません。
「チャイニーズ&スリランカ」の献立では、チャーハンに入れるチャーシューも手作りから用意しましたが、一つ一つ丁寧に調理をすれば、美味しくなると信じているので、チャーハンも美味しく頂けたかと思います。
さて、話は少しずれますが、
和尚さんは、お坊さんを見ただけで、そのお坊さんが、どの宗派に属しているか、だいたいわかります。また、真言宗にいたっては、十八派ありますが、高野派と京都の各派の僧侶の顔つきが違うことも見分けられます。
これ、まったく布教には役に立たない無駄な観察力なのですが、お坊さんを見て、毎日熱心に拝んでいる僧侶は、とくに、ひと目でわかります。精進しているだけあり風格が感じられますが、熱心に拝み修行に精進している僧侶は「法力」と言いまして独特の雰囲気があるものです。
和尚さんは、普段の生活では作業や食事など「まあいいか」と思うことしばしばありますが、読経、掃除、整理整頓、調理に限っては、いよいよ「まあいいか」ができなくなってきました。
調理にいたっては、檀家さんから施された食材を、まあいいかという気持ちで調理はできません。
閑話休題
こんなもんでいいだろう。と、なんとなし心のどこかで手抜きをしてしまうと、作業に反映されてしまいます。作業に反映されると、身につく結果も本来の半分以下になるものだと思っています。
また、「後でいいや」「そのうちやる」なんて後からで機会が巡ってくると過信しすぎると、必ず手詰まりの原因となります。
とりわけ忙しい時や、具合が悪いときは床につきたいなと思いますが、和尚さんに供養を託した方を想うと、「その人が毎日できない分、私自身がやらないと」と思い、拝みます。
施主である方々の中には、供養を託したことを忘れたり、どうでもいいと思っている人もいるかもしれませんが、受けた約束を守るためには手抜きはできません。私自身の生き方がどうであるかというところにいきつきますね。
さて、「チャイニーズ&スリランカ」の日には、エビチリも出しましたが、エビチリを調理する際に使った中華スープも自家製でした。和尚さんは、前日に中華スープと、チャーシューを作り、塩ラーメンにして食べたのです。
これだけ丁寧に、自家製で調理すれば、カレーは美味しくなる!とブツブツ言いながら調理をしていました。
お釈迦様、大師ら、偉大なる尊者達よ
ありがたや
結局なにを書きたいかというと、カレーを出した前日の晩に、ラーメンを作って美味しく食べられと文章で表現したかったのです。
拝 合掌
【ラーメンを食堂で出す予定は今後もありません】