怪僧の愚言
スリランカという国の、古い呼称に「ランカディーパ」がある。ディーパとはサンスクリット語で「島」。シンハラ語で言うなら「ドゥーパタ」である。
私たちスリランカ上座部では、毎日のお勤め読経で、これを唱える
マヒヤンガナン ナーガディーパン カッリャーナンパタラーンチャナン ディワーグハン ディーガワーピ チェーティチャンチャムティンガナン ティッサマハーヴィハーランチャ ボーディンマリサワッテイヤン ソンナマーリ マハーチェーティヤン トゥーパーラーマバヤーギリン ジェータワナンセーラチェィヤン タターガータナターナタン エーテーソーラサターナーニ アハンワンダーミサッバダー アハンワンダーミーダードゥヨー アハンワンダーミドゥラトー
これは、お釈迦様のランカディーパの教化布教の足跡を讃えて、信仰を抱く(これを帰依という)伝承の言葉だ。
釈尊は、修行をしたことで得た、偉大な力(神通力)で、ランカディーパに到来された。その最初がマヒヤンガナである。
詳しいことはさておき、じつは、お釈迦様は、神通力で、ランカディーパを観察されたとき、ランカ島には、鬼神がいたことを察知する。それが「ピサーチャ、ブータ、ヤッカ」の三種だ。ピサーチャとブータとは、いわゆる餓鬼である。これは、かの真言曼荼羅の大悲胎蔵生曼荼羅の枠の中にも描かれているくらい、存在の認知はされていた。
シンハラ語で「ブータヨー」というのは『お化け』という意味で、子供のしつけに、「ブータヨーが来るぞ!」というと身震いするくらい怖い存在だ。
この三種の鬼神を、お釈迦様は島から追い出さないとならなかったのだが、大神通力であらゆる事象を化作(あたかも本当にあるかのように見せる)、彼らを怖がらせて、追い出した。
だが、単に追い出したのではなく、ランカディーパという場所は、仏教の修行者の地に、とても相応しいから、去ってくれないかと説得した。彼らは、後に釈尊と約束をして、一つには修行僧を守護する約束。お釈迦様は、彼らに新たに島を与えて、そこでは末永く暮らせる場所だと約束をされる。その島の名前が、スリランカの古い島史『ディーパヴァンサ』には、「ギリ島」と書かれてある。
詳しく調べると、ギリ島とは、浅瀬に連なった小さな島々。とあり、それは、いわゆる地理上、現在のモルディブ諸島のことなのだ。
モルディブ諸島に、積極的な仏教布教が定着しなかった由来の一つだ。それは釈尊の意図と、三種の鬼神達の約束の証であろう。あの島々には島に住み着く三種の生き物がいる。と解釈するのが、正しい鬼神達の存在認識である。
そして、彼らは同時に、ランカ島で暴れない約束をするどころか、守護する役割を果たし現在に至る。鬼神は輪廻転生するためか、ヒョヒョイっと突如として現れる。その現れる都度に、人間の祈祷師が登場し、かの釈尊と三種の鬼神達との言い伝えを彼らに伝え、退散してもらうのだ。(フェスムフナという仮面をかぶって、悪鬼退散という儀式の一つの意味。盛んな場所はアンバラントタ市沿岸部)
スリランカ南部に、カタラガマという場所がある。そこはランカ島を護る神の神殿があるところで、日本でいうところの伊勢や出雲のような場所である。
カタラガマ神は、常日頃、とある動物に化けて・・・いや、表現が正しくない。正しくは権現(仮の姿で現れる)となって存在している。それが、クジャクなのだ。彼らをモナラという。
カタラガマ神は、島を護る守護者の代表格であって、三種の鬼神ではないところの意味合いは、島史からみるに、とてもおもしろい
話を戻して…
本来の仏教というタイトルで、会報で連載記事を書いていたが、記事を書きたかった理由というのは
本来の仏教寺院・・・いわゆる、仏教は難しく生きる為の教えではなく、人がそれぞれの個性に応じて幸せになるための智恵と方法を得る場所である。と考えているからだ
私には、スリランカの修行生活は、たしかに大変であるものの、幸せな気持ちになる。大変ではあるが、モノが少なくてもニコニコしていられる。何かに追われる緊迫感はない。人を侮辱したり、蔑んだり、暴力的なこともなく、押しつけがましい自己主張もない。してやった、教えてやったもない、不平不満を他人の責任にもしない。皆で協力し、助け合う。上下に対して規律はあり尊敬の念は、行為、言葉に現れる。
ただじっと、師や兄弟子達の教えを学ぶ。自分で仏教の真意を発見できる場所だ。
修行に相応しい場所。ランカディーパ
まあ、あとは、紅茶も美味しいしね
怪僧の愚言
※写真 僧坊食堂の紅茶は、ザラメ付き。理由は来てのおたのしみ