5年ぶりのスリランカ渡航でした。ものすごく嬉しかったです。僧院や周辺の街並みや人々に接すると、遠い昔から知ってる故郷へ帰ってきたような場所です。
一方で、師の齢が衰え、すっかり人生の終焉近気を感じられるようになり悲しさや寂しささえもら感じられました。
今日の仏教、すなわちお釈迦さまが伝えられた「教え」の本質を知ることができる貴重な場所と師達ら仲間が集うところがスリランカ僧院です。
【現実的な選択で、人間らしさがある僧侶たち】
スリランカ、強いては私の師ら仲間たちは、いつも檀信徒や人々に気持ちを向けて布教をしています。
たわいもない雑談、相談相手、ともに作業をし、短い法話を惜しまない。いつも変わらずに袈裟を着用し、出来るかぎりの範囲でしかも時代に即した規律を維持していることで、檀信徒の信頼維持を助けています。
不要な儀式はしませんが、増えてもいない。檀信徒からわかりやすく、時間の短い儀式のみを一年に二、三度あるのみです。
実生活に即した法要儀式は、檀信徒の参加意識をなめらかにしています。これらは素晴らしい努力であり、世間をいつも見ている人間意識の現れかと私は肌で感じています。
寺に来る人と会話をすると、お坊さんの生き方に尊敬の気持ちを持つ人が会いに来て、お参りもしていく、そんな関係が見られます。
両者の関係からは、お坊さんが檀家さんに気に入られ、たくさんの人に寺へ来てもらおうという姿勢は全くないのが特徴であって、それこそが人々の信仰を寄せるのだと感じられます。
寺や僧侶に魅力を感じて人をひきつける手だてとして、ぜいたくに費用を投じた仏像や、ギラギラ輝く装飾品、楽しいイベント、建築にこだわった利便性の高い建物を用意していくら頑張っても、僧侶の人間としての生き方、魅力と信頼に勝ることは決してないのだと私は実感しています。
計算高いしたたかさや、腹を探るような人間の心理はどこにも見当たりません
寺には必要なものはおおむねそろっています。なんとなしイメージされやすい原始時代のような生活をしているわけではく、極端な理想原理主義で生きているわけでもありません。
時代に必要な物はおおむねそろっている寺ですが、師の必要な所持品は、三枚の衣、うちわ、肩下げ袋、老眼鏡、ラジオ説法を聞くための壊れかけの40年前のラジオくらいです。
部屋にないものは、賞状や証明書、写真、装飾品であって、主席で卒業した大学卒業証書さえもどこにあるか覚えてないそうです。
特筆する特徴を更に挙げるなら、部屋には仏像、仏画さえもなく、神棚や、信仰の目印になるようなものさえもない本物の僧侶の生き方がうかがえます。
身なりを含めて極めて清潔な空間であり、感服する簡素な師の空間からは、ブッダが伝える「人はいかに生きるべきか」の仏教の本物と本質を感じられます。
現代社会のスリランカにおいても、極めて貴重な方であって、僧侶の中でもお手本とする方にはあらゆる人々から尊敬を注がれています。
閑話休題
なんともさみしいきもちで最終日を過ごしました。滞在中、連日開催した食事の布施の総括を最終日に行い、たくさんの方々の布施を供え、お祈りいたしました。